そんな私を包み込むように腕に力を入れると、聡一朗さんは独り言ちるように囁いた。
「これが夢なら、醒めないで欲しいな」
息が止まる。
私は涙を堪えながら聡一朗さんを見上げた。
聡一朗さんは、いつもの冷静な顔に微かな陰りを宿して続けた。
「昨晩のことだが――」
私は咄嗟に指を聡一朗さんの唇に押し当てた。
「言わないでください……」
「……」
「私はあなたを」
「愛してる」
言おうとした言葉が、聡一朗さんの口から出た。
私は目を見張り聡一朗さんを見つめる。
「昨日のことを酒のせいになんかしない。俺は君を愛してしまっている。ずっとずっと前から」
「……」
「結婚を申し出た時にはもう、君のことを愛していた」
口を開きかけた私を制止するように、「だが」と続け、聡一朗さんは苦しむように目を伏せた。
「俺に君を愛する資格はないんだ」
その言葉が、重く私の胸に落ちる。
「どうして……」
涙で言葉を続けられない私を引き離し、聡一朗さんが身を起こした。
「すまない。時間をくれないか」
そう悲しげに呟くように言い残して部屋を出て行こうする背中を見て、不意に私は気付いた。
聡一朗さんはその背中に、どうしようもなく大きな孤独を背負っている、ということに。
そしてそれは、私ではどうにも消し去ることができない、ということに。
※
それから、聡一朗さんは大学へ行った。
私は二日酔いが治まる兆候が無かったので、大学を休むことにした。
もとより授賞式があるため午前中の講義しか出ないつもりだったので、大きな差し障りにはならなかった。
授賞式は午後から始まる。
昨晩のパーティと違ってスーツを着ればいいだけなので、準備に時間をかける必要がないのが幸いだった。
二日酔いは、さきほど飲んだ薬が効いてきたようで、朝よりかはだいぶ調子が良くなってきていた。
コーヒーを飲むといいと聡一朗さんに言われたので、朝食の後、二杯目を飲みながらぼうとリビングに座っていた。
快晴の日差しが降り注ぐ部屋は、なぜだかいつも以上に広々としていて寂しく感じる。
『俺に君を愛する資格はないんだ』
その言葉と意味を、ずっと考えていた。
そして、聡一朗さんの背中に宿る、深い悲しみを帯びた孤独のことも。
聡一朗さんはなにかに囚われている。
それは過去のことに違いない。
数えるほどしかない聡一朗さんとの思い出の中で悲しみに関係することといえば、ひとつしか思い浮かばなかった。
亡くなった聡一朗さんのお姉さんだ。
お仕事関係の学術書が並ぶ大きな本棚と仕事机にシンプルなシングルベッド。
それしかない簡素な部屋に、違和感を与える大きな仏壇――そこに唯一添えられたお姉さんの写真。
聡一朗さんに似て、上品で聡明そうな美しい顔には、少し陰があるように見えた。
聡一朗さんは両親を早くに亡くし、他に頼れる親戚もいなかった。
だからお姉さんが身の回りのことや金銭的なことまで面倒みてくれて、文字通り、親のような存在になってくれた。
いつか、『姉がいなければ今の俺はなかった』とまで言っていた聡一朗さん。
どれほど大きな存在だったのだろう。
聡一朗さんの大切な唯一の肉親なのに、お会いすることが叶わなかったのがとても残念だった。
そもそも、私は亡くなったという事実以外お姉さんのことをなにも知らない。
何年前に亡くなったのかも、お墓がどこなのかも。
許されるなら、いつかお墓に手を合わせに行きたいな……。
と考えて、はっとなる。
そうだそれに、お姉さんはたしか結婚していたと聞いた。
なら今そのご家族との交流はどうなっているのだろう。ご主人は? お子さんはいたのか――。
どこか腫物のような存在に感じていたから、無意識にお姉さんのことはあれこれ考えてはいけないと思っていたけれども――結婚してたった数か月とはいえ、お姉さんのご遺族と、一度も接点を持ったことがない。
そうだ。
いまさらだけれども、結婚した時に挨拶することもなかった。
籍に入ればお姉さんのご遺族とも親族になるのだろうから、挨拶ぐらいするのが筋だ、というのは子どもの私でも想像がつく。
いったい、聡一朗さんとお姉さんのご遺族との関係は、どうなっているのだろう――。
ピンポン。
どこか不穏もはらんだ不可解なことに思いを巡らせていると、インターホンが鳴った。
ハウスキーパーの山本さんは、今日は来ない予定だ。
宅配便かな、とインターホン画面を覗くと、見覚えのある若い男性が立っていた。
この方はたしか……。
「はい」
「あ、その声はもしかして美良ちゃんかな? 初めまして、柳瀬凌と申します」
やっぱり、聡一朗さんのお友達で、アメリカで同じく大学教授に就いてらっしゃるという柳瀬さんだ。
聡一朗さんから大学時代の時やSNSに載っている画像を見せてもらったことがあった。
聡一朗さんに負けず、目立つ容姿をされているからよく覚えていた。
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