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「俺は、充兄さんに育てられたようなもんなんだ」
セックスの後、しばらく抱き合ってお互いの肌の感触を楽しんでいると、蒼が口を開いた。
「和泉兄さんと充兄さんは対照的な部分が多くて、年も近いせいか仲が悪かったんだけど、俺は年が離れてたから二人には可愛がってもらったんだ。だけど、和泉兄さんは俺が小学校に入学する前にアメリカ留学で家を出たから、一緒に暮らした記憶がほとんどない。充兄さんは俺が高校入学するまで実家暮らしをしてくれて、忙しい父さんの代わりに俺の面倒を見てくれた」
蒼が私の髪に指を絡めながら話すのを、私は黙って聞いていた。
「和泉兄さんは絵に描いたような優等生で、生徒会長とかやってたんだけど、いつも穏やかな余裕の表情で、本心がわからないことが多かった。充兄さんも優秀だったけど、和泉兄さんには敵わなくて、いつも比べられてた。充兄さんはいつでも誰にでも本音でぶつかっていくタイプだから、トラブルも多かったけど、俺は充兄さんが好きだった」
昔話をする蒼が泣いているような気がして、私は身体を起こして蒼を組み敷くような体制で見下ろした。
蒼は少し寂しそうに笑った。
私の髪が蒼の首筋に触れるか触れないかのところで揺れる。
「手を引いてもいいよ?」
「……」
「私がお兄さんを追い詰めることになったら、辛いでしょう?」と言って、私は蒼の鎖骨にキスをした。
「兄さんたちは潔白だよ」
「信じたいわね」
「わかってるくせに――」
蒼の言葉を遮って、私は蒼の舌に喰いついた。
蒼の手が私の胸をまさぐる。太ももに固いものが当たる。
「今の咲、『メス』っぽい……」
「まだまだ、こんなもんじゃないわよ――」
そう言って、私は蒼に跨った。
*****
「課長、承認お願いします」
清水の事件発覚から二週間が過ぎ、会議室で経理課のデータと格闘していた藤川課長と築島課長がデスクに戻ってきた。
詩織ちゃんは久し振りに課長の顔を見て、浮足立っていた。
私は真からメッセージの返事を受け取り、有休の申請書を課長に提出した。
「来週の金曜?」と、蒼は少し驚いた顔をした。
初めてセックスした夜から三日間、蒼は私のマンションに帰ってきた。
名前ばかりの恋人はいたものの、他人と生活を共にすることに慣れていない私は、自分のスケジュールを共有するなんて考えが浮かばず、申請書で初めて蒼に私の週末の留守を知らせることになった。
蒼は三秒ほど私の顔を見てから、承認印を押した。
「咲先輩、今年も旅行ですか?」
デスクに戻った私に、詩織ちゃんが言った。
「いいなぁ。私も誕生日に旅行をプレゼントしてくれる彼氏が欲しいなぁー」
「え?」
「だって、来週の土曜日は先輩の誕生日でしょう? 去年も休暇取ってたじゃないですか?」
「よく……覚えてたね」
本当に意外だった。
詩織ちゃんて、どうしてこうもどうでもいいことに頭が回るのだろう。
「へぇ……。成瀬さん、来週誕生日なんだ」
私がハッとして振り返ると、蒼が引きつった笑顔でこちらを見ていた。
「プレゼントに旅行なんて、優しい彼氏だね」
怒ってる……。
「営業からイベントの詳細資料もらってきます」
私はその場から逃げ出して、エレベーターに駆け込んだ。
こんな時、自分の恋愛スキルの低さを思い知らされる。状況から考えて、私が休暇を取ることを伝えていなかったから不機嫌だったのだろう。
いや……、詩織ちゃんが『彼氏と旅行』って勘違いしたから?
そうじゃないことはわかってるだろうから、やっぱり事前に休暇を取ることを伝えてなかったから……。
でも、それってそんなに重要なこと?
エレベーターの扉が開いて、私は営業部に向かった。
「すみません、急にお願いしてしまって」
今回、庶務課に今週末のイベントの手伝いを依頼してきた営業部二課の小松原和之さんが、ミーティングブースで待っていた私に缶の缶のミルクティーを差し出した。
「ありがとうございます」
「もともとは主任の担当だったんですけど、先週から謹慎になっちゃって……」
清水のPCにあった写真に写っていた人物は次々に自宅謹慎となっていた。営業部では一課課長、二課主任が清水の同期で、現在謹慎中だった。
「大変ですね」
「はい。でも、成瀬さんに手伝っていただけて心強いです」
小松原さんは優しい笑顔で言った。
「足を引っ張らないように頑張ります」
「気が早いですけど、イベントが終わったらご馳走させてください」
「いえ、お気遣いは……」
「気遣いではなく、俺が――」
小松原さんがハッとして私から視線を逸らした。私もすぐに人の気配に気が付いた。
「僕も同席させてください」
蒼が顔を覗かせた。
「築島課長……」
「イベントでは僕もお手伝いさせていただきますので」
そう言いながら、蒼は私の隣に座った。
小松原さんは突然現れた社長の息子に、緊張気味にイベントの説明を進めた。私はとにかく黙って聞いていた。
「では、当日はよろしくお願いします」と言って、小松原さんは立ち上がった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私と蒼も立ち上がって会釈し、小松原さんに背を向けて歩き出した。
エレベーターに乗ると、蒼が二階ではなく十二階のボタンを押した。十二階は社内の会議に使われる大会議室と会議室がある。
「どうして十二階?」
「……」
蒼は明らかに不機嫌そうな表情で無言だった。
「あの、休暇のことは言い忘れてただけで……」
珍しくノンストップで十二階に到着した。
扉が開くと、蒼は私の腕を引いて会議室に入った。
「休暇の理由は?」
「え?」
「咲に彼氏が二人以上いなければ、『彼氏と旅行』じゃないよね?」
口調が穏やか過ぎて、蒼が不機嫌なのがひしひしと伝わってきた。
これは、不機嫌なんてもんじゃない……。
「里帰り……」
「里帰り?」
「友達の……法事で……」
私は声を絞り出した。
この話は嫌だ。
「休暇のこと、黙っててごめんなさい……」
「咲、そうじゃない」
「え……?」
「休暇のことはおまけだよ。俺が怒ってる……っていうか、ショックだったのは――」
言いかけて、蒼が私の顔をじっと見た。
「ホントにわかんない?」
「……」
休暇のこと以外……?
蒼は私に全く心当たりがないことを見て取って、ため息をついた。
「誕生日だよ!」
「はっ……?」
誕生日?
「いや、俺もちゃんと確認しておけばよかったんだけどさ! 来週末が誕生日だって、なんで言わないの。しかも、休暇取って里帰りとか……」
そうか……。普通、誕生日は恋人と過ごすか……。
でも、私は――。
「蒼、私……」
「プレゼント催促するみたいで言えなかったとか?」
「違う……。ごめん、私誕生日を祝ってもらいたくないの」
自分でもおかしなことを言っているとわかっている。でも、蒼にはちゃんと言っておかなければならないと思った。
「は?」
「遠慮とかじゃないの。私、自分の誕生日が嫌いなの」
「なんで……」
頭の中で、親友の言葉が聞こえた。
『咲、誕生日おめでとう。バイバイ……』
親友の、千鶴の最期の言葉。
自分の呼吸が浅くなっていくのがわかった。しばらく忘れていた息苦しさに、動揺してしまった。
マズい……。
「咲? どうした?」
蒼が心配そうに私の顔を覗き込む。
上手く息が吸えない。けれど、会社で倒れるわけにはいかない。
「真を……呼んで――」
意識が薄れる中で、私は何とか言葉を残した――。
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