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咲が倒れた原因が過呼吸であることは察しがついた。藤川課長に電話で状況を知らせて、咲の過呼吸が初めてでないことを確認してから、俺は咲に二酸化炭素を吸わせた。藤川課長が会議室に来た時には、咲の呼吸は安定していたが、俺の腕の中で眠ったままだった。
「こんなところで何をしていたんだ?」
藤川課長は鋭い目つきで聞いた。
「話をしていただけですよ」
「休暇の件か」
「何でもお見通しですね」と、俺は子供染みているとわかっていながら、挑戦的な口調で言った。
「咲の恋愛下手を擁護するのは簡単だが、それは二人の問題だ。喧嘩でも別れ話でも好きにしろ。ただ、咲の生死となれば話は別だ」
「は……? 過呼吸で大げさ……な」
藤川課長の真剣な表情に俺は背筋がぞっとした。
大げさなんかじゃない。
あんなに気丈な咲が過呼吸になるほどの理由があるってことだ――。
俺は咲の呼吸を確かめるように、彼女の首に触れた。ゆっくりと脈打っているのを感じて、ホッとした。
「咲が倒れる前、何を話した?」
「咲が……誕生日が嫌いだって……」
「そうか……」
藤川課長は納得したようだった。
「その話、それ以上しないでやってくれ」
「なんで……」
「咲が自分から話すのならいい。咲が望むなら俺から話してもいい。だが、咲がこうなるってことは、今はお前に話す決心がつかないってことだ」
「いや……、なんなんですか?」
「頼む、蒼。今は時期が悪すぎる」
藤川課長に、初めて『蒼』と呼ばれた。少しは俺を咲の恋人として認めてくれていると感じた。
「時期が来たら聞かせてもらいますよ、真さん」
俺が咲の身体を軽く揺すって名前を呼ぶと、彼女の瞳がゆっくりと開いた。
「大丈夫か?」
「ん……」
咲はゆっくりと身体を起こして、真さんの姿に気が付いた。
「ごめんね、真」
「いや、大丈夫か?」
「うん。もう大丈夫」
そう言って、咲は真さんに手を引かれて立ち上がった。
咲が過呼吸で倒れてから二日。俺は彼女をゆっくり休ませようと、自分のマンションに帰った。たった三日、彼女を抱いて眠っただけなのに、一人のベッドが冷たくて仕方がなかった。
咲がどうして自分の誕生日が嫌いなのか、ずっと考えていた。
友達を亡くしていることに関係があるのだろうか。
そういえば、友達っていつの友達だ?
法事をするってことは七回忌とか十三回忌とか?
七回忌なら咲が二十四歳の時、十三回忌なら咲は十八歳……。
『高校三年の時、咲は親友を裏切った男たちを社会的に葬った』
唐突に、侑の言葉が浮かんだ。
これか……?
咲が十八歳の時、友達が死んだ。親友が男に裏切られ、咲は男たちを社会的に葬った。
これを一連の流れと捉えていいのか?
そもそも、友達の法事が十三回忌とは限らない。
けれど、咲が自分の誕生日を嫌うのが、誕生日前後に亡くなった友達と関係があることは確かだろう。
これ以上考えても、仕方がない。
俺はスマホで履歴から咲の番号を呼び出した。〈発信〉を押そうか迷って、やめた。
目を閉じると咲の姿が浮かぶ。
顔を赤らめて、恥ずかしそうに声を我慢して、それでも俺の愛撫に感じて身をよじる咲。
身体の疼きを感じて、ハッとした。
どんだけハマってんだよ、俺――。
侑の気持ちがわかった気がした。
『別れが想像できないから、結婚もあり得ないことではない』
誕生日に指輪をプレゼントとか、重いかな――。
誕生日が嫌いなんだから、プレゼントも拒否されるかな――。
でもなー、ベタだけどいつも身に付けられるものを渡したいな――。
咲は俺のもんだって、咲に近づく野郎どもにわからせたい。
ふと、小松原の顔が浮かんだ。
くそっ、あいつ絶対咲を狙ってるだろ。
そんなことをぐるぐると考えながら、俺はひとり寝の夜をやり過ごした。
翌日、俺は営業部のイベントの手伝いで、自社所有のコンベンションセンターにいた。
参加企業は二十社ほどで、すべてT&Nグループの関連企業。要するに、うちのグループのことをよく知ってもらって、取引企業を増やすためのイベントだ。営業二課は俺が京都で手掛けたショッピングモールのマーケティングをする。
庶務課からは、俺と咲の他に満井と春田さんが手伝いに来ていた。
俺が企画から携わっていたことは誰も知らないから、あくまで裏方に徹しなければならない。
もっとも、庶務課の仕事はパンフレットの配布と会場案内だから、取引企業の知人に会っても、なんとか話をかわせるだろう。
「こんな大きなイベントに来ちゃって、良かったんですか?」
備品の搬入で二人になった時、咲が言った。
「グループの上層部や京都での関係者も来るでしょう?」
「これだけの広さだ、大丈夫だろ」
「まぁ、正規のルートで本社勤務してるんだから、隠れる必要はないでしょうけど」と、目も合わせずに咲が言う。
「何だよ、なんか不機嫌そうだな」
「別に……」
「『別に』とか言ってる自体、変だろ。言えよ」
少し黙ってから、咲は小声で言った。
「昨日も来なかったから……」
「はっ?」
「だから――!」
「いや、体調が心配だから行かないって言っただろ」
「一昨日はね! でも、昨日は……」
「課長、成瀬さん! 開始まで十分です」
満井に呼ばれて持ち場に就いた俺と咲は一日中会場内を歩き回り、イベント終了まで顔を合わせることがなかった。
咲のあの言い方だと、昨日は俺が行かなくて寂しかった、ってことだよな。
つーか、それならそうで、なんで電話してこないんだよ。
そんなことばかり考えていたせいか、イベントが終わり会場を出る咲が小松原と歩いていたのを見て、俺は気持ちの制御が出来なくなっていた。
近くには満井と春田さんもいたが、小松原は上機嫌で咲の隣を歩いていた。
『イベントが終わったらご馳走させてください』
小松原が咲に言っていた言葉を思い出し、俺は思わず咲を呼び止めた。
「咲!」
咲だけでなく、満井も春田さんも、もちろん小松原も振り返った。呼び止めたのが俺だとわかって、みんな驚いた顔をしていた。
俺はわざと咲ではなく、小松原と向き合った。営業部に負けない、余裕の営業スマイルを作る。
「お疲れさまでした」
「あ、お疲れさまでした」
「営業部の皆さんは打ち上げですか?」
「はい。皆さんもご一緒にいかがですか?」
小松原の表情に不安や焦りが見えた。俺が『咲』と呼んだことに、動揺を隠せないのだろう。
「ありがとうございます。ですが、今回はイベント直前に担当者が変わったことなどもありますし、営業部の皆さんを激励してあげてください」
「そう……ですか。では、またの機会……に」
駄目押しに、俺は咲の肩に腕を回した。小松原の声がどんどん小さくなって、ついに無言で会釈をして走り去った。
「さて、俺たちは俺たちで飲みに行こうか」
見ると、満井と春田さんが目を丸くして、反応に困っていた。
「さて、じゃないですよ、課長」
咲は珍しく怒っていた。
「何してるんですか」
「何って? 虫退治?」
「虫?」
ん? もしかして、咲は小松原が自分に気があることに気が付いてなかった?
「自分のもんにコナかける奴はみんな虫でしょ。ねぇ、満井くん」
咲に聞くまでもなく、満井と春田さんの関係には気づいていた。
「そうですね」と言って、満井くんは春田さんの肩を抱いた。