「はあ……」
和哉は毎日にうんざりしていた。親の稼いだ金があるから衣食住に困ることはなかったが、はやくこのニート生活から脱却できんかなあ、と思っていた。
——当初はこの歳になったら大学か専門行って、かわいい彼女作る予定だったのに……。
しかしながら無論、思っているだけだ。彼はなんら行動を起こさずに、今日もひとしきりゲームで遊んだあと、動画サイトで好みのビデオを見たりした。そして今日の「シメ」にパソコンでアダルト動画のサイトを開いた。
最近、自慰のライブ配信をしているのを見るのに夢中になっている。リアルタイムで配信されている卑猥な行為は、彼を背徳という名の羽根でくすぐり、絶頂に達したときの快楽を燃え立たせる。
「中継されている」。それが何より大事なことだった。
「ん?」
いい裸体がないか探していると、ひとつだけ色調が違う動画が目に飛び込んできた。彼はぐっと顔を画面に近づける。
「これ……」
見覚えのある光景。彼の目玉にぐっと押し込まれ、その中で拡大されていくような画。
——小学生のころ、よくここに通った。間違いない、あの廃墟だ。
和哉の意識に、10年前の記憶が蘇る。下校中にふと目についた、誰もいない、工場みたいな建造物。そこにはじめて入った時のかび臭さ。
重い鉄扉を開け中に入り、内部を捜索する。ぼろぼろになったソファが部屋の中央に配置されており、他にはなにもない空間だ。
なにかの罪を背負っているような気分だった。ひとりだけの秘密を知ってしまった罪、とでも名状すべきだろうか。
ひとりだけ。それは彼にとっての自由であり、幸福だった。ここでならなにをしても許される。そう思えた。
誰にも見られていないのをいいことに、ズボンを脱ぎ、下着を脱いだ。ソファに腰掛けて、ひとりきりの快楽に耽った。
そこで回想を中断する。——問題は過去ではない。現在だ。なぜ今ここで配信を?
和哉は迷いなく、ライブのサムネイルをクリックした。
再生回数と高評価数はそこまで伸びていない。いやそれどころか、今そのライブを見ているのは自分だけだ。
当時のたたずまいは、そっくりそのまま残っていた。ぼろぼろのソファが、懐中電灯のような弱い光源に照らし出されている。
「ふふ。見にきてくれたのね。ありがとう」
若い女の声。カメラのマイクにごく近い場所でしゃべっている感じがする。
「ねえ、はやくきて。わたし、どうしようか?」
和哉はすぐさま、使ったこともなかったテキストチャットの画面を開いた。だが画面に表示されたのは「この機能はプレミアム会員限定です。プレミアム登録しますか?」という冷酷な文言だった。
有料会員になれるわけがない。親にこんなことで金を使っているとバレるのはまずい。だが、
「はやくきて……」
耳元で囁くような甘い声が、和哉を葛藤という名の地獄に追い込んでいく。
——そうだ! この背景はたしかに10年前によく入り浸っていた廃屋だ。ということは、このライブ配信されている場所は実在する。それも家のすぐ近くに!
和哉は両親に気づかれないよう、スマートフォンとイヤホンを持って玄関から抜け出た。ライブ配信はスマートフォンから見ている。
「ふふ。はやくきてよ……」
イヤホンからの声に導かれるように、昔通っていた通学路を辿る。そう、暗くなったら一箇所だけ街灯がなくいやに暗い場所があって——。
「ここだ」
彼はあっという間に、廃屋の前にたどり着いた。錆で腐蝕してしまった門扉。その取手に手を掛ける。
重い。当時のままだ。だがかなり力を入れても開かない。両手でぐっと押し込んでもスライドしない。
「はやくきて……」
囁く声が、和哉を一層焦らせた。この中に、確かに誰かいるのだ!
と突然、つっかえ棒が取れたように扉がスライドした。扉が壁に衝突して強い衝撃音が鳴った。彼の心臓は激しく鼓動を刻んだ。
「さあ、はやくきて」
足を内部へ踏み入れる。記憶の中のかび臭さが、完璧に再現されていた。ソファもだ。月明かりのような微量な光で照らし出されている。彼は少しずつ、空間の中央に近づいていく。
「はやく、きて」
どうやら声はソファの方から発せられているらしい。彼はゆっくりと、ソファに歩み寄った。
ソファを目前にした、その時だった。
背後でゴーンと衝撃音が鳴った。鉄の扉が閉まったのだ。
——なぜだ、自動で閉まるわけがないのに!
彼は扉の方をふりむく。すると、輪郭のぼやけた人間の姿があった。
「お前は」
「きてくれてありがとう」
動画で聞いた女の声だった。
「驚かせてごめんね」
ひた、ひた、と近づいてくる。暗闇に淡く浮かび上がったのは、一糸まとわぬ女の姿だった。
「なっ」
「これから、いいことしてあげる」
和哉は、これまで感じたことのなかった不穏な感情に身を震わせた。女が、彼の両肩にゆっくりと手をかける。そしてそれを首の後ろに回す。
「あなたが来るの、待ってたのよ」
彼は、暗がりの中かすかに見える女の顔を見た。
——こういう時、どうするんだ?
完璧に混乱している彼に、女はそっと口づけを落とした。
「これは、契約。わたしとあなたとの契約よ」
もう一度、と思った彼は再び女の顔に唇を寄せるが、
「ちょっと待ってね。焦らないの」
女は人差し指を口に当てる仕草を見せた。
「あなたのおかげで、わたしはここにいるの。10年前、ソファで出したでしょ?」
「えっ」
「ここは、生命の泉。そのソファが命を吸い取り、新しい命を生み出すの」
「ぼ、ぼくはただここで——」
「した、でしょ。だけどもっと効率良く『命の種』を吸収する方法が必要なのよ」
そこまで言うと、女はふっと退き、暗闇の中に消えていった。
「ちょ、ちょっと」
そう言いかけた彼の両足を何かが掴んだ。たちまち彼の下半身が動かなくなる。
ふと下に目をやると、粘土のような肉塊が、塗り固められたように両脚を抱えている。その中の「ひとつ」が、顔をもたげた。
目と鼻のない顔が、牙を剥き出しにしてにんまり笑った。
肉塊達は続々と現れ、和哉をあっという間に直立したままのがんじがらめにしてしまった。
遠くから、女の声が聞こえる。
「これから精巣を切除する。わたしたちが開発した「培養搾取器」に入れ替えるの」
女は注射器を持って、みじろぎさえ許されない和哉の前に再び現れた。
「大丈夫。最初は痛くないから」
そう言って和哉の右腕に注射針を刺した。全身をこわばらせていた彼の緊張は解け、次第に力も抜け、意識も失われた。
和哉が失踪を遂げ、捜索願が出されてから2ヶ月が経った。
が、有力な手がかりは依然として見つかっていなかった。
町は取りも直さず静かだった。
防音壁が施された「廃屋」は、誰にも触れられることがなかった。
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