マリエは、詩織から1枚のCDアルバムを受け取った。
00:00:00
真っ白なジャケットの上には控えめな文字でそう書かれていた。
「これ、ヴェイキャントの新しいアルバムなの」
詩織はうきうきしながらそう話す。よっぽど思い入れがあるんだな、と思いつつも、マリエは苦笑するしかなかった。
「ヴェイキャントって、あの前衛芸術の?」
ヴェイキャントはアルバムを発表するたびに奇異な発言や行動を起こしている、いわば虚無主義的なアーティストでもあった。この前はボーカルが記者会見で記者にペンを投げつけたり、その前は自らの自傷行為をMVにして動画サイトに上げたり、あらゆる「露骨さ」を前面に押し出している。マリエからしてみれば、いなくてもいいアーティストだ。
「ロックバンド、って言ってほしいなあ。まあ、でも聞いてみて! 聞いたらきっとわかると思うよ」
「わかるって、なにが?」
「このアルバム、ほんとうに不思議なアルバムで、1トラックだけ入ってるんだけどそれが無音で。しかも長さが0秒っていう——ちょっと、聞いてる?」
「聞いてるって」
「ほんと素っ気ないなあ。……でね、その意味を理解したら、ちゃんと曲の入ってるCDになるんだよ! でもね、わたしまだその答えに辿りつけなくて」
「謎解き、みたいな感じなんだね」
「そう! そうだよ。この謎が解ければ、世界はその答えに染まっていくって言われてて。だから、一緒に解こう?」
「でもさあ、これ……」
わたしはいやだ、となかなか本心を切り出せないマリエ。詩織は、マリエの持っているアルバムを、マリエ側に押し寄せるようにぐいぐい動かした。
「解けたら、わたしにも答えを教えてほしいの! ね、お願い」
「うーむ……わかったよ」
すると詩織はぐっと拳を握りしめて、
「やったっ! じゃあ、答え探し頑張ろうね!」
マリエは仕方ないといった顔で笑った。
そのCDには、確かにトラックがひとつだけ入っている。再生時間は00:00。
——じゃあ、タイトルの00:00:00って、再生時間のことじゃないの?
マリエはうーん、と唸った。考えてもそれ以上の答えが思い浮かばなかったからだ。
不思議なことに、マリエはいつしかタイトルの答え探しにのめり込んでしまっていた。なぜだか、このアルバムのジャケットの清冽とでも喩えるべきシンプルさの虜になってしまっていた。詩織がすっかりこのアーティストにハマってしまっているのも、今なら理解できた。
数学のノートの空いたページを開き、罫線の上に鉛筆で「00:00:00」と書いた。その下に
時間:分:秒
と記述する。
これが単純にそうではないことは確かだ。だとしたら既に答えに行き着いたことになってしまう。
ふと机に置かれたデジタル時計を見る。23時43分だった。もうちょっと悩み続けても宿題は間に合いそうだ。
——無音、か。無音が作る音楽……。
そう考えて思わず息を呑んだ。マリエは、「4分33秒」というタイトルの楽曲のことを思い出したのだ。
現代音楽家のジョン・ケージが作曲した「4分33秒」という曲は、全楽章が無音である楽曲である。ただし聴衆は、演奏される間に「意図しない音」——つまりざわめきや雑音といった非楽音——を聴くことになり、畢竟それも音楽であるということを知る、という一曲なのだ。
もちろんこの「00:00:00」がそのトリビュートとして作られたものである可能性は高い。だがそうでないのなら、別の意味が与えられているのだ。
マリエはもうひとつ、ジョン・ケージの作曲した曲を知っていた。「0’00”」である。この曲も「4分33秒」と同じ類の楽曲なのだが、このタイトルは「0分00秒」のみならず、「0フィート00インチ」とも読めるのだ。つまり「音の長さ」と同時に「隔たり」を意味するタイトルでもある。
——これが「00:00:00」にも当てはまるなら。
すぐさまペンを握りなおし、マリエは数字の下に新しい事項を書き込んだ。——ヴェイキャントは日本のバンド。つまり。
km:m:mm
「解けたっ……!」
心の底から歓喜が湧き上がる。だが、同時にとある疑念が頭をもたげた。それが正解だという保証がどこにもなかったからだった。そして彼女の身の回りにはなにも変化がないということが、明確に「不正解だ」と告げているようにもまみえた。
ひとまず、詩織に電話をかける。数コールですぐ「もしもし」と応答がきた。
「詩織、これ解けかけたんだけど……」
「マジで!? やっばー! やっぱりマリエ勉強できるもんねー! で、答えは?」
「解けかけたけど違う気がするの」
「えー、そっかぁ……ちなみになんだと思ったの?」
「最初の00はキロメートル、次がメートル、次がミリメートル。この数字、時間じゃなくて長さなんだって思ったんだけど」
「あ、言われてみれば合ってるかも!」
「でもね、0メートルの長さが何を意味しているのか解けなくて……」
「うーん、そっかあ……」
「考えれば考えるだけキリがないから、また今度考えてみるね。CDは明日返すから」
「わかった……。マリエならわかると思ったんだけどな」
お互いに、じゃあね、と声を掛け合って電話が切れた。
通話時間は02:16。「:」がつくものに過敏にっているな……と思ったマリエは、乾いた笑いを口からこぼした。
デジタル時計が目に入る。00時03分18秒。「:」で繋がれている文字列。
あっ、とマリエはノートを見た。——「時間:分:秒」で合ってるじゃないか!
現在時刻をこの体裁で書き記せば、
00:03:18
——つまり、日付がちょうど変わる時間、「00:00:00」に、件のトラックを流せば、何かが得られたのだ!
そう考えたマリエは急に全てが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
——こんな単純な……、笑えちゃうな、自分。
ノートの記述を消す代わりに、鉛筆で自分が書いた文字列を塗りつぶしていった。何かを罰するかのように、激しく鉛筆を擦り付ける。
ページ一面を鉛筆で塗りつぶして、パソコンからCDを抜き取ろうとしたその時だった。
「……おめでとう……きみは答えに辿り着いた……」
と、低い男の声がパソコンのスピーカーから流れた。
「え、なんで」
マリエは音が流れているのを止めようとした。
その声は、無音だったCDからメディアプレイヤーを介して流れていた。
「六つのゼロが意味するものは……カラーコードだ……つまり、#000000、純粋な黒色だ……」
マリエはウィンドウを閉じようとした。だが「×」の箇所が見当たらない。
彼女の視界は、黒い雨粒を受けた窓のように、徐々に黒に覆い尽くされていった。
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