『名前を呼ばれるまで』
一目惚れだった。
生まれて初めて、理由の説明できない恋。
誰もが振り返るほどの整った顔、
というわけじゃない。
だけど、その人には不思議な引力があった。
無駄のない仕草。
どこか遠くを見ているような、
落ち着いた眼差し。
教室に溶け込みながら、
決して同じ色にはならない、透明な違和感。
授業中はいつも眠そうなのに、
ノートは整っていて、成績は上位。
友達といる時は柔らかく笑うのに、
その先では、ぼんやりと空気に溶けてしまう。
__一人が平気そうで、
__でもきっと、
誰かがいないと不安になる人。
作り笑いを顔に貼り付けている彼と、
本心を隠して生きている私。
正反対なのに、どこか似ている気がしていた。
「一ノ瀬くんと話してみたいなぁ」
何度も口に出しかけて、飲み込んだ言葉。
「話しかければいいじゃん」
そう言われても、足は動かなかった。
失恋するくらいなら、
遠くから眺めるだけの恋でいい。
それで十分だと、思っていた。
「……伊織さん」
その声に、心臓が一拍遅れて跳ねた。
部活中の友達を待つ、夕方の教室。
一ノ瀬くんが、静かに入ってくる。
「今日回収の数学のプリントなんだけど……伊織さんだけ出てなくて」
「あ、……ごめんね」
視線を落とした先には、
ほとんど白紙のプリント。
終わった、と思った。
でも__
「……はは、俺の見る?」
少し困ったように、
でも優しく、
彼は笑った。
眉を下げて、控えめに開く口元。
友達と話す時と同じ、あの笑顔。
胸の奥で、何かが静かに弾けた。
「じゃあ、出してくるね」
「プリント、ありがとう」
「……うん」
それだけの会話。
友達にもなれていない、ほんの数分。
なのに__
教室を出ていく彼の足音が消えた瞬間、
私は一人で、小さく跳ねた。
あの笑顔を見たのは、私だけ。
そう思うだけで、世界が少し、明るくなる。
今はまだ、名前を呼ばれただけ。
それでいい。
もう一度、あの笑顔を見られるように。
それだけを目標に、頑張ろう。
透明な恋は、
まだ始まったばかりだった。






