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「もう諦めたらどうですか?」
冷たく言い放つその顔。
私に対する、嘲りが滲んでいる。
「あなたも大人だから分かるでしょ?
遊ばれていたんだって」
その言葉が、私に絶望させる。
「貰える物貰って、大人しく引き下がって下さい」
私とこの男の間にあるテーブルの上には、
厚みのある茶封筒---…。
許せない…。
そう思ったのは、私を遊んで捨てた男ではなく、この目の前の男。
その茶封筒の横には、最初にこの男に差し出された名刺が置かれている。
弁護士だと名乗り、彼の代わりにこの男が別れ話に来た。
滝沢斗希。
たきざわとき…。
私が復讐する、その男の名前。
その人は、私が生まれて初めて本気で愛した人。
◇
「結衣(ゆい)の肌は温かくて柔らかいな」
一糸纏わぬ姿の私の上で、彼、眞山綾知(まやまあやとも)も何も身に付けない姿で、私の肌を撫でる。
それは、手であったり舌であったり。
「---あ、社長」
「また、社長って呼んだ」
耳元でクスクスと笑うその声が、こそばくて体に力が入る。
大きな手で、私のその部分に触れ、確かめると、彼自身が私の中へと入って来る。
それと同時に感じる快楽に、私の体にさらに力が入る。
お互いの呼吸が激しく乱れ、それと同じように激しく揺れる体。
大きなダブルベッドの上。
此処は、都内のラグジュアリーなホテル。
「愛してる、結衣」
体を重ねながらそう囁かれた言葉を、
この時は、微塵も疑う事なんて無かった。
大会社の社長である彼が、ただの秘書である私に”本気”なわけなんて無かったのに。
◇
眞山綾知、彼はおもちゃ業界御三家と言われている、
株式会社ベリトイの若き社長。
元々、ベリトイはベリトイホールディングスとして、持株会社だった。
今から一年程前、ベリトイは弱味であったゲーム事業を強化する為、
ゲーム事業で大手であるNANTENスクエアと経営統合し、
新たに共同持株会社としてベリナングループを設立した。
それに伴い、ベリトイはベリナングループの傘下となった。
二年前、私は前身であるベリトイホールディングスに新卒で入社し、秘書課に配属されていた。
NANTENスクエアと経営統合後も、
移動もなくそのままベリトイの秘書課で勤務する事になる。
ただ、その経営統合で、元々のベリトイの社長はベリナングループの専務取締役となり、
新しく、ベリトイの社長として就任したのが、眞山綾知。
社長に就任した時の彼の年齢は、31歳。
彼は元々、NANTENスクエアの常務取締役だった。
そんな彼は、NANTENスクエア創設者であるNANTENスクエア社長の、長男。
そのNANTENスクエアのその社長は、現在、ベリナングループの社長として活躍している。
そして、元々のベリトイホールディングスの会長が、ベリナングループの現会長として治まっている。
その二社の経営統合により、色々と人事異動があったけども、
私も含め、大半の社員には殆ど関係のない事で。
ただ、秘書である私は、その新しく就任した眞山社長の、担当秘書の一人になった。
◇
「初めまして。
社長だけど、この会社では一年目なので、
皆さんには色々とご迷惑をお掛けするかもしれませんが」
就任初日、秘書室へとわざわざ足を運び、低姿勢でそう挨拶した、眞山綾知。
その彼の姿は、噂に聞いていたように端麗な容姿で、その親しみやすい雰囲気に、私は一目で惹かれた。
それから、私は三人居る眞山社長の秘書の一人として、
眞山社長とは仕事を通してすぐに親しくなり、
食事へと誘われた。
それは、ホテル内のレストランで、
その後、ホテルの部屋へと誘われた。
「結衣、俺と付き合って欲しい。
君が好きなんだ」
眞山社長はそう言って、私を抱いた。
それは、私にとって初めての経験だった。
セックスだけじゃなく、キスさえも。
初めて、男性に好きと言われたのも。
付き合うという事も、初めて。
その日、7月2日は、私の24歳の誕生日だった。
その一年後の25歳の誕生日に、
私は、眞山綾知に捨てられた。
◇
「---別れて欲しい」
それは、いつものようにホテルのベッドの上で、行為を終えた後。
同じベッドの中、眞山社長は私の隣で寝転びそう口にした。
その言葉は、私の顔を見ずに淡々と告げられた。
「えっ、別れてって…」
私は突然のその言葉に、頭が追い付かない。
何かの冗談なのだろうか?と思っていた。
「最近、婚約したんだ。
いや、それはまだ正式なものではないのだけど。
それは、親が決めた相手なんだ」
政略結婚…。
大会社の社長で、御曹司でもある彼が、
ただの秘書の私なんかと、結婚するわけがないと、彼と付き合っている間何処かでずっと頭にはあった。
だから、いつかこんな日が来るんじゃないかと。
なのに。
「けど、私…。
妊娠してるの…。
綾知さんの子供を」
そう口にしていた。
それは、嘘だった。
私は妊娠なんてしていない。
眞山社長と関係を持ち始めてすぐの頃から、ずっと低容量ピルを服用している。
それは、眞山社長から頼まれてそうしていた。
ゴムに対して、軽いアレルギーがあるからと。
私と初めての時は、ゴムを付けてくれていたけど、
二度目以降は、私がピルを服用して避妊をしていた。
妊娠した、と告げられた眞山社長は、少し動揺したようにこちらに視線を向けた。
「最近、ピル飲んでなかったの」
そう続けて、言葉にした。
今も、彼の吐き出した欲望の塊が、私の体から溢れ出している。
「---分かった。
今すぐには、何も言えない。
少し、時間をくれないか?」
その言葉は、何処か強制的な強さがあった。
私は、それに頷いた。
眞山社長は、いつものように行為を終えると、ベッドから出てシャワーを浴びる。
いつもは、その後朝迄一緒にベッドで眠るのだけど、
この日は、シャワーの後脱いでいたスーツを身に纏い、私を見ずに部屋から出て行った。
◇
その別れを切り出されたのが金曜日の夜で、
その2日後の日曜日の午後15時。
M駅の喫茶店に、眞山社長から呼び出された。
だけど、そこに現れたのは眞山社長ではなくて。
「Y法律事務所所属の、滝沢です。
眞山社長の代理として、今日は話し合いに来ました」
そう言って、その男滝沢斗希は名刺をテーブルの上に置いて、私の前へ座る。
ちょうど通りかかったウェイターに、ホットコーヒーを頼んでいる。
「小林(こばやし)さんは、もう注文されました?」
その滝沢斗希の言葉に首を横に振り、
アイスコーヒー、とそのウェイターに告げた。
そのウェイターが立ち去ると、
話し合いを始める合図のように、滝沢斗希は私に視線を合わせて来た。
「なんで弁護士の方がわざわざ…」
恋人同士の別れ話に、何故?
「眞山社長が言うには、あなたに脅迫されていると」
「脅迫?」
その言葉に、面食らってしまう。
「いえ。それは少し大袈裟な表現だったかもしれませんね。
ただ、眞山社長の子供をあなたに妊娠したと言われ、困っていると相談を受けて。
なに、その妊娠の話が本当ならば、あれなのですが。
もし、嘘ならば…」
ふっ、と笑うこの男の顔は、私のその妊娠が嘘だと気付いている。
いや、目の前のこの男ではなくて、
眞山社長は分かっている。
改めて、目の前のこの滝沢斗希の顔を見ると、その顔に見覚えがある事に気付いた。
彼は、うちの会社、ベリトイの何人かいる顧問弁護士のうちの一人だ。
一度、その姿を会社で見た事があった。
何故、この人を覚えていたのかは、
この滝沢斗希の容姿が端麗で、
女子社員達が騒いでいたのを覚えているから。
あの時は、チラリ、とその姿を目にしただけだったけど、
今、この人を目の前にして、その整った顔に思わず、息を飲んでしまう。
見るからに高そうなチャコールグレーのスーツを身に纏い、
一切の隙も見せない、その表情に、私は怯んでいる。
私が何かを口にしても、
それをやり込められてしまうのが、
戦う前から分かり、戦意を喪失してしまう。
「小林結衣さん、あなたと眞山社長の関係を伺っても、よろしいですか?」
「私と眞山社長は…付き合ってました。
ちょうど、その関係は一年です」
「付き合っていた、と言っても、色々ありますよね?」
そう問われ、え?と思う。
いや、この場合の付き合っているは、男女のそれでしかないはず。
「ほら、ちょとそこまで”付き合って欲しい”とか」
その明らかに私を馬鹿にしたような言葉に、私が眉間を寄せると。
「あなたと、眞山社長が付き合っている、と何か証明出来ますか?」
そう言われ、頭の中で色々と思いを巡らせるけど、
付き合っていると証明出来る何かが何もない。
「例えば、あなたと会う時に、例えばですけど、
何処かのホテルを利用していたとしましょう」
例えば、と滝沢斗希は言うが、その辺りの事も、眞山社長からこの人は聞いているのだろう。
眞山社長は現在実家暮らしで、会社の寮に住んでいる私と彼の会瀬は、いつもホテル。
そのホテルのレストランで食事をして、
そのまま部屋へ、というのがこの一年間のルーティーン。
彼からこの交際は、まだ周囲には内密にしておこうと言われていて、
彼の会社での社長だと言う立場を考えて、私はそれを何も疑問に思わなかった。
社長が担当の秘書と付き合っているなんて周りに知られたら、
周りにどう思われるか。
だから、いつも彼とは人目を憚るように会っていた。
だから、デートらしいデートなんてした事もなかったし、
私と眞山社長が付き合っていたなんて、誰も知らない。
「そのホテルでも、例えば偽名を使っていたり…とか。
もし、ホテルの従業員があなたと眞山社長を見ていたとしても、ホテルの人達が客のプライベートな事を話さないでしょう」
この人の言うように、眞山社長はいつも偽名でホテルを取っていた。
「例えば、個人的なやり取りを、メールとかで行っていたら、ともかく」
眞山社長と私個人とのやり取りは、
いつも電話だった。
LINEや、仕事以外でのメールでのやり取りは一切ない。
付き合って欲しいと言われた夜に、
メールの類いが嫌いなのだと言われていた。
「例えば、あなたの方から何かを眞山社長に送ったとして、
眞山社長が何かを返してそれが残っているとかなら、あれですけど。
あなたが一方的に送ったならば、それはただの妄想が過ぎてからの行動かもしれませんよね?」
私から、LINEではなくて通常のメールで、待ち合わせの事で確認の連絡をした事が一度あるけど、
眞山社長は、それには返信をくれなかった。
仕事の事では、返してくれるのに。
私が何も言えずに黙っていると、
先程注文していた、ホットコーヒーとアイスコーヒーが運ばれて来た。
「これは俺の一人言ですが、
別に結婚をちらつかせたとかではないのに、
ここまで徹底して、それをなかった事にしなくても、とは思いますよね」
涼しい顔で、滝沢斗希はそのコーヒーのカップを手に取り、口を付けている。
もう話し合いは、終わりだと言うように。
「それ、を、なかった事…」
私と眞山社長との一年間の交際は、
この人に、それ、と言われ。
そのそれは、なかった事になったのだと、知らされた。
今まで、こんな風に人生の中で絶望した事は幾度とある。
むしろ、絶望しかないような、私の半生。
眞山社長の交際は、そんな私にとって初めての幸せだった。
「月に一度程、そうやってホテルで密会して、
周りにそれを隠されて。
その関係が付き合っていると?」
そう言って、滝沢斗希は鼻で笑う。
私は悔しさから、唇を噛み締めていた。
「今一度訊きます、あなたと眞山社長との関係は何ですか?」
その言葉に、私は眞山社長にとって何でもなかったのだと知った。
いや、何処かではそれを気付いていた。
だけど、私はそれに気付かない振りを、ずっとしていた。
「なんで俺に、眞山社長は頼んだのだろう、と思ったけど。
俺がこういう事に慣れていると思ったんでしょうね。
そして、俺が自分と同類だと」
同類?、と、何処か問いかけるように、私はこの男に目を向けた。
「あくまでも、俺の場合ですけど。
簡単にセックス出来る女性が何人か居て。
なんとなく、その中でも切るのがめんどくさいって思う女って分かるんですよ。
だから、切る時は中途半端ではなくて、初めからとことん、って感じでしょうか」
それで、この人は眞山社長に頼まれて私の元へとやって来た。
私は、眞山社長やそんな彼と同類のこの人に、切るのがめんどくさい女だと判断されているのだろう。
「これ、眞山社長からあなたへと」
そう言って、茶色の封筒をテーブルに置いた。
その中身が何なのか、聞かなくても分かる。
お金。
「手切れ金って事ですか?」
「いえ。
これは眞山社長が普段のあなたの仕事振りを評価しての、寸志ですよ」
あくまでも、私と眞山社長との関係を、認めない。
その後の事は、殆ど覚えていない。
憎悪に取り付かれたように、目の前の滝沢斗希に憎しみを向けていた。
許せない、許せない。
何度も唱えるように、思う。
目の前のこの男が。
何故だか、私を遊んで捨てた眞山社長ではなく、
私の憎しみがこの滝沢斗希に向く。
夢を見ていた私を、無理矢理叩き起こしたのは、この男。
いつの間にか話し合いは終わり、
滝沢斗希の姿はなかった。
目の前に、手切れ金の入った茶封筒と、彼の名刺を残して…。
◇
その一方的な”話し合い”の翌日の月曜日、会社へと行くと、私に内示が出た。
室長の小島さんから、社長の担当秘書から外れ、他の役員の担当をして欲しいと。
それは、来週から新しく専務取締役に就任するその人に、へと。
「え、新しい専務取締役の担当は、中島(なかじま)さんだと決まってましたよね。
それに合わせて、中島さんが動いていますよね?」
半月程前から、中島さんが取引先等方々に、その旨を伝える電話や、
就任後その挨拶周りのアポを取っていた。
「だから、僕も中島君には急な異動となって悪いと思うよ。
けど、社長自ら、中島君には自分に付いて欲しいと言い出して。
ほら、中島君元々営業部の人間だから、わりと他社に顔も広いし。
前々から、社長の秘書の中に一人は男性秘書が欲しいと、社長も思っていたみたいで。
その代わり、優秀な君を、ぜひ専務の秘書へと」
「なんでこのタイミング…」
「このタイミングだからだよ。
専務が就任すると同時に、ね」
人の良い室長は、私の口に出したその言葉を、そのまま受け取り、そう返している。
何故?このタイミング。
別れたと同時に、仕事でももう私と関わらないようにするつもりなのだろう。
「だから、今日から中島君からのその引き継ぎで、
もうそちらの業務に専念してくれて構わないと、社長が」
その室長の言葉が、何処か遠く聞こえる。
別れを切り出されたのが金曜日で、
日曜日には、ああやって私に弁護士を差し向けて。
月曜日には、もう仕事でも私に関わらせないようにするなんて。
そして、新しく専務へと就任した、
川邊篤(かわべあつし)の担当秘書になり、二週間が過ぎた。
突然のその内示に、最初は屈辱や怒りしかなかったが、
それが私にとって、追い風となってくれるとは、思いもしなかった。
あの日生まれた、滝沢斗希への、復讐心。
◇
「へぇ、その会社に対して、著作権侵害で訴えようって事?」
この会社に居れば、またこの男と顔を合わせる事はあるかもしれないと思っていたけど。
こんなにも早く、その機会が訪れるとは。
今、私の見える場所に、滝沢斗希が居る。
滝沢斗希は、弁護士として、
川邊専務へと会いに来ていた。
だけど、私は知っている。
滝沢斗希と、この新しい専務である川邊篤が、幼い頃からの友人で知己の仲だという事を。
あの日差し出された手切れ金は、百万あり。
そのお金で興信所に依頼人して、
滝沢斗希の事を、調べて貰った。
その報告書を渡されたのは、つい先日。
それを見て、滝沢斗希とこの川邊篤との関係を知り、報告書を持つその手が震えた。
川邊篤、彼は32歳という若さで、今回この会社の専務取締役へと就任した。
そんな彼は、経営統合前のベリトイホールディングス会長であり、現ベリナングループ会長である川邊正(かわべただし)の息子。
ただ、この彼は、普通の御曹司ってわけではなく、
川邊会長が愛人か何かに産ませてずっと放っていた子供らしく。
川邊篤が21歳の時に、自分の息子だと認め、自分の戸籍に入れたらしい。
この人の事は、興信所に調べる迄もなく、この会社に入社してすぐに、色々と聞かされた。
昔、非行に走っていて、中卒だったと。
川邊会長に引き取られてから、大検を受けて大学へと行き、
26歳の時に前のベリトイホールディングスに入社した。
そして、入社後すぐに課長になり、
部長となり、
今回、専務取締役へと就任した。
「いや、その、うちのガンフォーマーによく似たロボットキャラの文房具出してる会社、
ヤクザのフロント企業らしくて。
だから、うちの会社としては、あまり事を荒たてずに、向こうに忠告くらいで済ませたいって」
今日、滝沢斗希が川邊専務の元へと訪れたのは、
今、川邊専務が口に出したトラブルの為。
「いや。向こうが著作権侵害しているなら、堂々と訴えても構わないんじゃないのか?」
「それがな。
昔あった事件みたいに、うちの食玩に毒を入れる、みたいなような事を匂わせてくるんだってよ。
それを脅しにならないように上手く。
ほら、そんな噂が立つだけでも、売上が下がるし、どうしたもんか、って。
社内でも、このまま見て見ぬ振りで通すかどうかでも、意見が分かれてて」
「なるほどね。
そんなトラブルだから、篤に回って来たんだ」
私は、専務室の扉付近へと立ち、
応接テーブルで話し合っている、滝沢斗希と川邊専務に目を向けている。
滝沢斗希は、先程私がテーブルへと運んだコーヒーに、口を付けている。
滝沢斗希をこの専務室へと通した際、
彼は私の顔を見たが、私の事を覚えていないのか、
笑顔で私に頭を下げていた。
「にしても、篤が専務だなんて」
そう笑う滝沢斗希の言葉に、
川邊専務は、何処か恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「うっせぇ。
秘書迄付いて、落ち着かねぇ」
そう言って、突然川邊専務に視線を向けられ、私は戸惑い笑顔を浮かべる事しか出来ない。
「秘書かぁ。
篤、くれぐれも手なんか出すなよ。
最近は、不倫問題は社会的に風当たりが強いから」
そう笑いながら川邊専務に滝沢斗希は話しているけど、
それは、私に対しての牽制なのだと気付いた。
きっとこの男は、眞山社長に近付いたように、
私が川邊専務にも近付くと思っているのかもしれない。
「手なんか出すかよ。
浮気したら梢(こずえ)に殺されるからな」
その川邊専務が口にした、梢という名前は。
川邊専務の、奥さんの名前なのだろう。
川邊専務のその奥さんも、元々はこの会社の社員だったと聞いた事がある。
川邊専務の子供を妊娠し結婚して、
産休と育休を取り、またこの会社に復職するはずだったと。
だけど、その育休中に二人目の妊娠が分かり、
そのまま退職したのだと聞いた。
噂でしか知らないが、川邊専務のその奥さんは、とても美人な人らしい。
「梢ちゃん、体調どう?
予定日12月の上旬だったよね?」
「ああ。今くらいが一番体調がいいんだと。
流石に四人目となると、色々と慣れてんな」
川邊専務には、その噂で子供が居る事は知っていたけど、
現在、奥さんは四人目を妊娠しているんだ。
「それにしても、四人目にして初めての男の子だろ?
名前とか、もう決まった?」
何の邪気もなく楽しそうに話しているその滝沢斗希の顔を見て、
そんな顔も出来るのか、と驚いてしまった。
この男にも、一応血が通っているのだと。
「愛(あい)麗(れい)唯(ゆい)と、女が続いてて。
男なら、上の子供の名前に合わせた名前じゃないのもありだと梢とも話してんだけどよ。
あ、あれだ、うちの秘書の小林も、名前が”ゆい”なんだよ。
うちの末っ子と同じで。
字は違うみてぇだけど」
再び、視線をこちらへと向けられて、私は愛想笑いを浮かべた。
「へぇ、そうなんだ」
滝沢斗希は、本当に私の事なんて今日初めて会ったかのように、
そう私に笑顔の浮かぶ顔を向けて来る。
「つーか、小林。
お前そんな所で突っ立ってないで、こっち座れよ?」
川邊専務は、秘書の私にそうあり得ないような言葉を掛けて来る。
「いえ。私は川邊専務から頼まれていたこの書類をお持ちしただけなので」
私の手にあるその二冊のファイルは、
件の著作権侵害に関する報告書。
これを持ち、ノックをしてこの専務室へと入って来たが、
滝沢斗希と川邊専務は私に一瞥もせずずっと話し込んでいた。
私はやっとの思いで、そのファイルを滝沢斗希と川邊専務に手渡した。
「そういやあ、昨日。
眞山社長から、小林はとても優秀だからって言われたな」
そう話す川邊専務の表情は何処か私を労うようだけど。
私は、その眞山社長の名前に、動揺からか顔がひきつってしまう。
「篤、眞山社長と仲良いんだ。
未来の弟だもんね」
その滝沢斗希の言葉に、足が震える。
それを初めて今知ったわけではない。
ここ最近、社内の噂で、それは知っている。
眞山社長と、この川邊専務の妹であり、
川邊会長の長女との、婚約の話があると。
あの話し合いの時、滝沢斗希が口にした言葉の意味が、それで分かった。
“ーーなんで俺に、眞山社長は頼んだのだろう、と思ったけどーー”
婚約者と噂されている女性の、
兄と繋がりのある弁護士に、遊んだ女の後始末をさせるなんて。
きっと、眞山社長は、滝沢斗希と川邊篤との関係を知っているだろうし、
滝沢斗希がこの会社に顧問弁護士として出入りしているのは、その繋がりからだろう。
弁護士として、守秘義務の関係で、眞山社長と私の関係を川邊専務に漏らさないと思って、彼に依頼したのだろうか。
眞山社長は、自分と同類の彼なら、その依頼をそつなくこなしてくれると思って。
「あ?結婚って妹はまだ22歳だぞ?
向こうが勝手に進めている婚約話で、
川邊のオッサンもあまり乗り気じゃねぇみたいだしよ」
川邊専務が口にした、そのオッサンは、
川邊会長の事だろうか?
「その妹の早苗(さなえ)ちゃんは、その婚約話についてどう思ってんの?」
「それがよ。眞山社長の写真をネットかなんかで見たのか、イケメンだから、早苗の奴けっこうその気になってるみてぇで。
いや、でもな、あいつまだ22で大学も卒業してねぇのに。
眞山社長俺らと同じ32だろ?
流石に年の差ありすぎんだろ?」
「今時10歳差くらい。
篤は、シスコンだから」
「シスコンとかじゃなくな。
小林、お前はどう思う?
お前、前まで眞山社長に付いてたんだろ?」
その川邊専務の質問に、拍動が強くなる。
ふと見ると、滝沢斗希も私に顔を向けている。
「---とても良い方ですよ。
偉ぶった所もなくて、秘書の私達や他の社員の方達の事もいつも気に掛けてくれたり。
仕事の面でも、眞山社長の働き方改革案もそうですが、彼の企画した新規事業のゲームアプリのプロジェクトも、それなりに結果が出ていますし」
「---そっか。
なら、妹がその気なら、俺は口を挟まないとすっか」
川邊専務はそう口にしているけど、
何処か腑に落ちないと言った感じで。
彼に私が何かを、気付かせたのだろうか?
「妹の事より、篤は子供達や奥さんである梢ちゃんの事を考えないと。
四人の子供の父親になるんだから」
「は?考えてるつーの。
にしても、なんでこんなすぐ子供って出来るんだろうな?」
「それは、篤が避妊しないからだろ?」
その滝沢斗希と同じ事を、私も心の中で思ってしまった。
「そうなのかもしんねぇけど。
なんで毎回一発で出来んだよ。
あの女、俺にどんだけセックスさせねぇ気なんだ」
川邊専務は溜め息を付きながら、やっと私が用意した、そのファイルに目を向けている。
滝沢斗希も同じように。
やっと二人の間に、今回の著作権侵害問題に話し合う真剣な雰囲気が流れ出したので、
私はそっと専務室から退室した。
それから一時間程して、秘書室に居る私宛てに、川邊専務から内線電話が有った。
要件は、滝沢斗希がもう帰るそうだが、特に見送りはいらない、と。
だけど、私はそれに従わず、
秘書室から出てエレベーターの下降ボタンを押した。
滝沢斗希は、こちらへとゆっくりと歩いて来る。
「お疲れ様です」
そううやうやしく、この男に頭を下げた。
「また近いうちにこちらへと伺う事になります」
そう言って、滝沢斗希はちょうど停まったエレベーターへと乗り込んだ。
そのエレベーターの扉が閉まるその一瞬、
滝沢斗希と目が合う。
ふっ、と不敵に私に笑い掛けた。
それは、挑発的に。
その瞬間、滝沢斗希に対しての、私の中にある憎しみが沸き上がる。
この男にも、絶望を味あわせてやる。
川邊篤という駒を使って。