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会場の重厚な扉が開かれた瞬間、刺すような視線が一斉に私へと注がれた。
煌びやかなクリスタル・シャンデリアの光が降り注ぎ、着飾った貴族たちが宝石を散りばめたように輝く夜会。
けれど、私にとってはここは優雅な社交の場などではなく、四方を敵に囲まれた戦場に近い。
「おや、ローズ家の娘がお出ましだ」
聞こえよがしに囁くのは、放蕩息子として有名なカイル子爵だった。
彼は私の噂を真に受けている男の一人のようで、隠そうともしない下品な視線で、私の体を舐めまわすように見回している。
いくら鈍感な私であっても、その視線が何を求めているかは嫌というほど理解できた。
「ルビー様、でしたね。今夜の最初のダンスはぜひ僕と。噂通り……さぞかし情熱的なステップを踏んでいただけるのでしょう?」
絶妙に気持ちの悪い笑みを浮かべて誘ってくる男。
私は精一杯の拒絶を示してお断りするが、子爵はしつこく私の行く手を阻むようにじりじりと歩み寄ってくる。
強引に私の手を取ろうとする、脂ぎった男の手。
その指先が私の肌に触れそうになった瞬間────
視界が、漆黒の壁で遮られた。
「……失礼。お嬢様は、先ほどのお車で少し酔われております。それと、今夜のダンスは先約がありますので」
ルカスだ。
彼は音もなく、そして確実に私の前へと割り込み
カイル子爵が差し出した手を、痛烈なまでの無表情で制した。
「なっ! 執事ごときが口を挟むな。僕は彼女と話しているんだ! それに……具合が悪いのなら、僕の馬車の中でゆっくり休ませてあげても…!」
下心見え見えな子爵の、吐き気のするような言葉。
一瞬の、ひやりとした沈黙の後、ルカスは口元だけをにこやかに吊り上げて続けた。
「執事であればこそ、主人の『価値』を理解せぬ不躾な振る舞いは見逃せません。……お引取りを。─────さもなくば、警備の者にローズ家の名で不審者の排除を命じなければなりません」
ルカスの声は、先ほどまでとは打って変わって、氷のように冷たかった。
その瞳は笑っているようでいて
奥底にはカイル子爵を塵芥のように切り捨てる鋭利な光が宿っている。
本物の殺気にも似たその威圧感に、カイル子爵は毒気を抜かれたのか
顔を引き攣らせ、チッと舌打ちをして去って行った。
「……ルカス……! ありがとう……っ、助かったわ」
「執事として当然のことをしたまでですよ。お嬢様、お怪我はありませんか……?」
「ええ、大丈夫よ」
私を振り返ったルカスは、先ほどの恐ろしいほどの冷徹さが嘘のように
いつもの穏やかな、非の打ち所がない表情に戻っていた。
◆◇◆◇
それから、数時間後───…
長く、忌々しい夜会がようやく終わりを告げ、馬車の中は重苦しいほどの静まり返っていた。
屋敷に着き、ようやく自分の部屋へ戻ると、私は装飾の多いドレスのまま、どさりとソファに身を投げ出した。
夜会は、とても苦痛だった。会場では意地悪な令嬢たちから
「今夜はどの男を誘惑したのかしら?」
「ちょっと顔とスタイルがいいからって調子に乗ってるんじゃないわよ」
と、根も葉もない悪口を浴びせられた。
燃えるような地毛の金髪に、勝気で少しキツめに見える青い瞳。
この派手な容姿のせいで、私はいつの間にか「淫乱令嬢」という不名誉な役回りに仕立て上げられている。
───けれど、本当の私は、知らない殿方とまともに目を合わせることすらできない、臆病者なのに。
そんなことを悶々と考えていると、張り詰めていた緊張が解け、どっと鉛のような疲れが押し寄せてくる。
「……お疲れ様でございました、お嬢様。今夜は散々な夜でしたね」
ルカスが背後に立ち、静かに、そして労わるように声をかけてくる。
私は重い体を起こすと、彼の方へ振り向いて問いかけた。
「……ねぇ、ルカス。あの子爵が私の噂を話していたとき、どう思った?」
「?……特に、何も」
「ウソ。あんなに怖い顔してたのに」
「……私は、お嬢様がどれほど純粋で、どれほど脆い方かを知っています。───だからこそ、あのような輩を目にすると、そういう表情になってしまうときもあります」
彼の言葉はあまりに過保護で、あまりに甘く響く。
でも、それは私が心から求めている言葉ではない。
「……それも、執事だから? 私のお世話係だから?」
「左様でございます」
「……はあ、いっつもそればっかり。好きのすの字も出てこないんだから」
私が拗ねたように唇を尖らせると、ルカスが至近距離で、ボソッと呟いた。
「……好きですよ」
「え!? ウソ!」
心臓が跳ね上がり、思わず身を乗り出して叫んでしまう。
けれど、ルカスは平然とした顔で、私を煙に巻くように言った。
「もちろん、ウソですが」
「そ、そんなぁ……っ」
期待した分、どっと肩を落としてヘコむ私を見て
ルカスはどこか困ったように、けれど容赦なく釘を刺した。
「────要らぬことを考えている暇があれば、早くお休み下さい。明日の公務に響きますよ」
「うぅ……わかったわ。おやすみ、ルカス」
「お休みなさいませ、お嬢様」
完璧な一礼をして、彼は部屋を去っていった。
一人残された部屋で、私は頬を両手で押さえる。
嘘だと言われたけれど、あの瞬間
彼の声がいつもより少しだけ熱を帯びていた気がするのは、私の都合の良い幻想なのだろうか。