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その日の午後
私は自室で、一冊の恋愛小説を熱心に開いていた。
ページをめくる指が少しだけ震える。
そこに記されていたのは、これまでの私にはなかった未知の戦術だった。
───《男性を惑わすには、まず距離を縮めること》
───《無防備な仕草は、彼の理性を揺さぶる》
「……なるほど」
正直に言って、書いてあることの半分も意味は分かっていない。
けれど、子供扱いされるのはもう御免だ。
私は決然と本を閉じ、拳を握りしめた。
名付けて「ルカス誘惑作戦」
彼が私のことを、一人の無垢な少女ではなく
意識せずにはいられない一人の女性として認めざるを得ないようにしてやるんだから。
◆◇◆◇
その日の晩────…
「───お嬢様。本気で、そのお姿で寝所へ向かわれるおつもりですか?」
ハーブティーを運んできたルカスが、開いた扉の前で、まるで精巧な石像のように固まった。
その視線は私の姿に釘付けになり、隠しきれない動揺がその端正な顔を掠める。
「いつもより非常に露出が高い格好をされていると思いますが……」
私はベッドの端に腰掛け、心臓の鼓動を必死に抑えながら、精一杯の「妖艶な微笑み」を浮かべて彼を迎え入れた。
今日の私は、昨日までの私とは違う。
昼間はあの小説以外にも、『異性を虜にする秘訣』という非常に怪しげで、読むだけで顔が赤くなるような本を隅々まで読破したのだ。
まずは、服装。
いつもの可愛らしいパフスリーブのネグリジェを脱ぎ捨て
クローゼットの奥深くに眠っていた、絹のように滑らかで薄いスリップを身に纏った。
肩紐がいつ滑り落ちてもおかしくないほど大胆なそれは、私の肌をこれでもかと露出させている。
鏡に映る自分は想像以上に恥ずかしくて、今すぐ叫びながら隠れたいけれど……
これもすべて、ルカスを誘惑するため!
意気揚々と彼を見つめる私に対し、ルカスは重い足取りで歩み寄った。
彼はハーブティーをサイドテーブルに置くと、ずいっと距離を詰め、私の細い手首を掴んだ。
ドキリ、と心臓が跳ね上がる。
けれど、期待したような甘い雰囲気は訪れなかった。
「お嬢様。何に感化されたか知りませんが、このままでは風邪を引かれてしまいますよ。今すぐ着替えましょう」
向けられたのは、甘い囁きではなく、説教じみた鋭い声。
(これでもダメなの!? 全く照れてないし、一ミリも効いてないじゃない!!)
心の中で悔しく叫ぶ私の心情など露知らず、ルカスはベッドの下に一冊の本が転がっていることに気づいた。
「……あら、本が落ちていますね。仕舞い忘れですか?」
「あっ! そ、それはダメ!!」
私が慌てて声を上げるより早く、ルカスはその『異性を虜にする秘訣』を拾い上げてしまった。
表紙の扇情的なタイトルが、彼の瞳に映る。
「……お嬢様。まさかその格好……この本で?」
低く、地を這うような鋭い声が落ちてくる。
その底冷えするような迫力にビクッとして、私は完全に萎縮してしまった。
「こ、これは……その……っ、さ、作戦というか……っ」
結局、彼の放つ無言の威圧感に負け、私はすべてを正直に白状した。
ルカスは天を仰ぐようにして盛大なため息をつき、長い指で眉間を強く押さえる。
「……はあ。そんなことだろうと思いましたよ。……それで?」
「え?」
「ですから、私がもし、理性を失ってお嬢様を襲ったりしていたら、どうするつもりだったのですか?」
「お、襲うって……冗談でしょ?」
「お嬢様は、それだけ無防備な格好をしているということですよ。この意味、分かりますか?」
ルカスは私を叱るように、けれどその手つきはどこまでも過保護で
丁寧に、分厚い毛布で私をぐるぐる巻きにした。
私はまるでおくるみに包まれた赤ん坊のような姿でベッドに固定されてしまう。
「だ、だって……色気を出せば異性は振り向くって本に書いてあったんだもの……っ。それに、ルカスは私に酷いことしないでしょ」
「……私を信頼してくださっているのは嬉しいですが、私も執事である前に、一人の男なのですよ」
ルカスの声が、少しだけ熱を帯びたように聞こえた。
暗がりのせいで表情はよく見えないけれど、彼の瞳がいつもより深く沈んでいる気がする。
「……一応聞きますが、なぜこんなことを? いつものお戯れにしては度が過ぎると思うのですが」
「……ルカスは、いつも私のこと子供扱いでしょ? だから、たまには『女』として見てほしくなったの。それくらいも、ダメなの……っ?」
俯きながら、消え入りそうな声で零した本音。
ルカスは困ったように、やり場のない視線を室内へ彷徨わせた。
「……いけません。それは、執事の仕事の範疇を超えてしまいます」
「それに……何度も言いますが、お嬢様にはもっと相応しい素敵な方がいますから。私だけを見ていると、お嬢様の恋愛も人生の視野も狭めてしまいます」
「ま、また、そうやって逃げる! 私は本気で好きなのよ? 一時の感情で言ってるんじゃない、13年も好きなままなの」
必死に訴える私の言葉を、彼は沈黙で受け止める。
その無反応さが、私の心を焦らせ、傷つけていく。
「ルカスは、私のこと……なんとも思ってくれてないの……っ?」
「執事とあろうものが、お嬢様に好意を持つのはいけないことですから」
どこまでも「執事」という壁に逃げ込む彼。
「じゃあ好きってこと? 好きじゃないってこと? ハッキリしてくれたら私だって、諦めて、他の男性を好きになるわよ……たぶん」
諦めるなんて、真っ赤な嘘だけど。そう言えば彼が少しは焦ってくれるんじゃないかと思ったのだ。
「……っ、お嬢様、こればかりは────」
ルカスが何かを言いかけたその瞬間。
私は言葉にできない焦燥感に突き動かされ、毛布の中から強引に腕を突き出すと
彼の首に、しがみつくようにして手を回した。
「───っ!」
勢いのまま、彼の冷たい唇に、自分の熱い唇を押し当てる。
ルカスが驚きに目を見開くのが、月の光が差し込む至近距離で見えた。
初めて触れた彼の唇は、驚くほど柔らかくて、ほんのりと紅茶の香りがした。
ほんの一瞬の、けれど私にとっては一生に等しい、永遠のような数秒間。
私はパッと顔を離すと、震える声で告げた。
「わ、私は本気だから……っ! おやすみ!」
心臓が爆発しそうなほど恥ずかしくなり、私はそのまま一人、布団の中に潜り込んだ。
頭まで深く被って、外の世界を遮断する。
布団に入って数十秒。
ルカスの気配は、まだそこにあった。
もしかして怒ってる?やりすぎちゃった…?と思ったのもつかの間
やがて、小さく、喉の奥から絞り出したような掠れた声が聞こえた。
「お、おやすみなさいませ。……ルビー様」
バタン、と静かに扉が閉まる音が部屋に響いた。
一人残された布団の中で、私は自分の唇をそっとなぞる。
指先が触れただけでも、今更のように耳まで火が出るほど熱くなって。
静寂の中で、狂ったように脈打つ心臓の音が、いつまでもいつまでも、うるさかった。
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