テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
不意に風が止んだ。
ーーいや、違う。
止まったのは人の動きだった。白耀剣が掲げた盾が、見えない泥に捕らわれたように凝固する。自警団が突き出した槍の穂先が、殺意を孕んだまま空中で縫い止められる。握りしめられた石が、指の隙間から零れ落ちることさえ許されない。まるで、世界の呼吸機能そのものが、恐れをなして一拍遅れたようだった。
次いで、死神の指先を思わせる冷気が、地面を音もなく撫でた。土の温度は物理的な法則を無視し、急速に奪われていく。
「やめて」
声は決して大きくなかったが、鼓膜よりも脳髄に直接響く透明な響きを持って、その場にいる全員を貫いた。
尖塔の影が落ちる場所。
村の奥、陽炎の向こう。
幻のように、白い影が、けれど圧倒的な質量を持って近づいてくる。流れる銀髪は、雲間から差す陽光を冷たく撥ね返していた。風もないのに、薄い外套がふわりと揺れている。
ソラスだった。
村人たちが、喉を引きつらせて息を呑む。
「聖女様……!」
「出てきちゃ、だめだ……」
その華奢な足が地を踏むたび、青々とした夏草が恐怖に震えるように凍りついていく。霜ではない。踏めば砕けるほどの、完全な凍結。
キィィィィィン――。
白耀剣の対魔装備が、悲鳴のような高い共鳴音を上げた。魔力干渉。盾に刻まれた防御陣が、主の意思に関わらず、過剰な負荷に耐えかねて強制起動している。ラヴィニアは、呼吸を忘れたまま、その少女を真正面から見た。
あまりにも小柄。
折れそうなほど細い肩。
武器など、何ひとつ持っていない。
――だというのに。
視線が合った刹那、背骨の髄までを氷柱で貫かれたような悪寒が走った。本能が警鐘を乱打する。
「……この子が」
音にならない呟きを思わず漏らした。思考が、理性を飛び越えて結論へと滑り落ちる。アルベルトがあんな顔で”記録”を残した理由を、彼女は、衝撃と共に理解した。彼が前に出なかったのは、単なる慈悲ではない。この少女は、守るべき対象であると同時に――決して触れてはならない、人智を超えた”何か”なのだ。
ソラスの碧天の瞳が、ゆっくりと巡る。まずは背後の村人たちへ。怒りと恐怖で強張った顔、震える手で握られた粗末な武器。それらを宥めるように。次いで、正面の騎士たちへ。白耀の鎧に身を包んだ、秩序の番人たちへ。誰も、指一本動かせない。そっと差し出すように、彼女は下に向けて両手を広げてみせた。ただそれだけの動作。
なのに、白耀剣が掲げる重厚な盾が、見えざる巨人に押されたか、じり、じりと後退を強いられる。それは物理的な衝撃ではない。空間そのものが示す、拒絶だ。
「剣を、しまって」
少女の言葉に、騎士の一人が歯の隙間から呻く。
「……体が、動かない……」
「魔法か……!?」
ソラスは、首を横に振った。
「違います」
即座に、静かに否定した。
「ただ”止まって”って、お願いしてるだけ」
足元の地面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。破壊の予兆ではない。世界が彼女の”願い”を受け入れようとして軋む、身じろぎの音だ。
自警団の男たちが構えていた槍の穂先が、重力に屈して垂れ下がる。村人たちの膝が震え、それでも、誰一人として地面に崩れ落ちることはない。生かされている。
ソラスは、薄い胸が痛むほど深く息を吸い込んだ。細く白い喉元が、かすかに上下する。
――無理をしている。
ラヴィニアの鋭敏な感覚が、その違和感を捉えた。彼女は今、溢れ出しそうになる奔流を、その小さな身体ひとつで必死に堰き止めている。敵も味方も、全員を生かすために。
ふと、ソラスの視線がラヴィニアを捉えた。儚げで透明な青。そこには、侵入者を責める色も、慈悲を乞う色もない。ただ、事実を確かめようとする静謐な光だけがあるように思えた。
「貴女が指揮官ですか」
ラヴィニアは、喉に詰まった言葉を飲み込み、ようやく絞り出した。
「……いえ。副官です」
すると、ソラスは小さく頷いた。
「よかった」
その声音に滲んだのは、紛れもない安堵だった。次いで彼女の視線は、隊列の中心にいるブロンド髪の騎士――アルベルトへと流れる。その眼差しを見た瞬間、ラヴィニアは戦慄しながら確信した。
――この少女は。アルベルトが下した判断を、その苦渋も、迷いも、すべてを最初から見透かしていたのだと。
止まっていた大気が不意に流れ出した。季節の名残を孕んだ、乾いた風。だが肌を撫でるその空気は、もはや以前とは別物になってしまっている。
剣は振られなかった。
血も流れなかった。
その代わりに、この場に居合わせた全員が、二度と引き返せない境界線の向こう側へと、足を踏み入れてしまったのだ。
もはや、風は完全に凪いでいた。
白銀に覆われ、凍てついた草の上で、ソラスとアルベルトは対峙する。その距離は、わずか十歩にも満たない。しかし、二人の間に横たわる溝は、物理的な距離などでは測れないほど深く、暗い深淵。その沈黙を先に破ったのはソラスだった。
「……アルベルトさん」
名を呼ばれ、騎士は一瞬だけ目を伏せる。その痛みを堪えるような微かな仕草だけで、彼女には十分だった。
「ここに来た理由を、もう一度だけ、教えてください」
アルベルトは唇を真一文字に引き結んだ。背中に突き刺さる村人たちの視線。張り詰めた白耀剣の緊張。何より、すべてを見透かす彼女の曇りのない瞳。逃げ場など最初からどこにもない。
「……王都アーデルハイムより、正式な命令が下った」
感情を削ぎ落とした、硬質な声。
「君――ソラスを、”特級異端隔離対象”第一種として指定する」
再びどよめきが起きかけたが、ソラスから放たれた冷ややかな気配が、それを喉元で押し留める。
「隔離……」
彼女は、その無機質な単語を舌の上で転がすように反芻する。
「では、討伐ではないのですね」
「違う」
アルベルトは、食い気味に即答した。そのあまりの速さに、傍らに控えるラヴィニアが僅かに緑海石の目を見開く。
「だが」
彼は言葉を継ぐ。その先こそが、最も残酷な通告だった。
「同時に、ライトリム村一帯も、制圧対象に指定された」
空気が、音を立てて凍りついた。ソラスの瞳が初めて不安げに揺れる。
「……村、も?」
「抵抗の可能性が極めて高いと判断された」
淡々と事実だけを並べる声。その響きは重い。
「秩序維持のため、騎士団長ジークは――」
その名が紡がれた瞬間、ソラスの背後の大気が、悲鳴を上げるように軋んだ。空間か、あるいは世界そのものが、拒絶反応を示したかのように。
「彼は、局地的混乱の芽は早期に摘むべきだと」
アルベルトは最後まで言い切った。その宣告が、決定的な引き金を引くことになると知りながら。
沈黙が、痛いほどに張り詰めた。ソラスはゆっくりと瞬きをする。その瞳の奥で、何かが静かに閉じられる音がした。そして――彼女は笑った。小さく、どこか懐かしいものを見るように。
「……そうですか」
彼女は背後の村を見渡す。怯え、怒り、そして期待。彼らの視線は、重たい鎖のように彼女に絡みついている。
「これが、私がここに留まり続けた代償ですね」
「違う」
アルベルトは、思わず声を荒らげた。葡萄色の瞳が、悲痛に揺れる。
「これは――我々の無力だ」
「いいえ」
穏やかな声でソラスが遮った。
「私が、選んでしまったことです」
そして一歩、踏み出す。ただそれだけの動作で、白耀剣の騎士たちが纏う対魔導鎧が一斉に軋みを上げた。空間の密度が変わる。大気が、彼女の存在を恐れている。
「あなたは、記録を書く人だと思っていました」
ソラスの視線が、アルベルトを射抜く。
「見たものを、ありのままに。私の言葉を、歪めずに書き留めてくれる人だと」
アルベルトの喉が引きつる。かつて交わした言葉、積み重ねた時間が、今は鋭利な破片となって胸を刻んでいく。
「でも、今回は違う」
「……何がだ」
「もうーー結論だけを携えて来ている」
その言葉は、どんな魔法よりも深く突き刺さった。アルベルトは唇を噛む。否定の言葉は、喉の奥で泥のように固まって出てこない。彼女の言う通りだ。今回の任務に”過程”はない。”隔離”という結果だけが、最初から決定事項として刻印されている。
ソラスは、両手を胸の前でそっと重ねた。それは攻撃の構えではない。内側から溢れ出しそうになる激情を、必死に宥めるための抱擁だ。
「この村を制圧するというのなら」
声の温度が、急激に下がる。
「その前に、私を通してください」
空気が凍りついた。隊員たちが反射的に剣の柄を握りしめるが、その指先は微かに震えていた。
「……それは」
若き隊長は、肺から空気を絞り出すように言う。
「命令に、反する」
「でしょうね」
ソラスは、小首を傾げて同意した。
「でも」
伏せられた睫毛が持ち上がり、そこにはっきりとした燐光が宿る。
「ここで剣を抜けば、あなたたちは自分に言い訳をするでしょう。”守るために斬った”と。”彼女が暴走したので仕方なかった”と」
図星だった。アルベルトが握りしめていた”正義”の形を、彼女は正確に見透かしている。
「私は、そんな安易な救済は与えません」
「ソラス――!」
「だから私が相手をします。全力で」
ぱきり、と乾いた音が響いた。周囲の地面までも一瞬にして白く染まる。熱を奪われた大気が逆流し、つむじ風となって彼女の銀髪を舞い上がらせた。計測器など見るまでもない。魔力の奔流が、物理法則をねじ伏せ始めている。後方に控えていたラヴィニアは、肌を刺す寒気の中で悟った。
これは、宣戦布告ではない。互いに後戻りできない場所へ踏み込むための、残酷な儀式だ。アルベルトは、剣の鯉口に親指をかける。抜かない。だが、もう離せない。
「……ソラス」
名を呼ぶ声が、風に千切れた。
「この線を越えれば、もう戻れないぞ」
「ええ」
ソラスはどこまでも澄んだ瞳で微笑んだ。
「最初から、戻るつもりなんてありません」
頭上で空が悲鳴を上げた。秋の到来を告げる雲が、不可視の力によって真っ二つに割れていく。
――次の瞬間。
剣が閃くのか、魔法が弾けるのか。あるいは、世界そのものが形を変えてしまうのか。その答えを知る者はまだ、誰もいなかった。