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第3話 流れゆく朝
朝、目が覚めたときにはもう隣のベッドは空だった。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
キッチンの方からケトルの音が聞こえた。
俺は枕に顔を押しつけたまま声を出す。
「…久遠」
「起きた?」
すぐ返事が返ってくる。
俺は重い腰を上げのそのそ起き上がり、寝癖のままキッチンへ向かった。
久遠がマグカップを二つ並べている。
コーヒーの匂い。
椅子に座る。
一口飲んで顔をしかめた。
「コーヒー苦っ」
「砂糖入れた?」
「入れてる」
「じゃあ諦めな」
「ひど」
久遠が少しだけ笑う。
俺はテーブルに突っ伏した。
「今日大学?」
「ゼミ」
「へー、心理学って何してんの」
「…色々」
「全然わかんね」
「わからなくていいよ」
マグカップをくるくる回す。
「人の心読む研究とかしてるの?」
「別にエスパーになりたい訳じゃない」
「夢ないなー」
少し沈黙。
ぼんやり部屋を見回して、ふと気づく。
「あれ」
「ん?」
「水槽」
玄関横の棚。
昨日まで小さな水槽が置いてあった場所。
今は何もない。
俺は少し首を傾げる。
「え、捨てたの?」
「…ああ、うん」
「もう?」
「残してても仕方ないだろ」
少し考える。
「…あれ、金魚さ」
「ん」
「もう一匹いたよね」
久遠はコーヒーを飲む。
「今朝もう一匹も死んでた」
「えー…金魚も後追いとかするんだ」
「水質悪かっただけだろ」
少し間。
「金魚、ちゃんと埋めてあげてね」
久遠はほんの少しだけ間を置く。
「うん」
それ以上は話さない。
久遠のスマホが震えた。
久遠が画面を見て、
ほんの一瞬だけ表情が変わる。
でもすぐスマホを裏返してテーブルに置いた。
俺はそれを見て言う。
「また?」
「ん?」
「昨日もそれやってた。あんまスマホの中身見られたくない系?」
「癖だよ」
「誰からなの」
「研究室のグループ」
「ふーん」
「ゼミ前だからさ」
それ以上追及はしない。
久遠が時計を見る。
「俺もう出るけど」
俺はハッとして顔を上げる。
「凪は何時に出る?」
「んー」
コーヒーを飲みながら答える。
「一回自分ち戻る」
「家事?」
「そ。母さん夜勤明けだからさ、俺がやんないとだし」
「でも凪、昼からバイトだろ?」
頷く。
目を細める。
「うん。え、なんで知ってんの」
「昨日言ってた」
「言ったっけ」
「言ったよ」
「覚えてんの怖」
俺は少し笑う。
久遠が立ち上がる。
「ちょっとトイレ行ってくる」
ドアが閉まり、
部屋が静かになる。
テーブルの上には久遠のスマホ。
俺はぼんやりそれを見る。
別に。
覗き見するつもりはないけど。
久遠が嘘をついてるって言いたいわけじゃないけど。
でも。
さっきの通知。
少しだけ気になる。
椅子の上で少し体を伸ばして、
テーブルに肘をつく。
そのまま、何気ない顔でスマホの画面を覗く。
シンプルな白のロック画面。
通知が並んでいる。
『研究室グループ』
「…なに覗き見してんだ、俺」
馬鹿らしく思い、小さく呟く。
そのとき。
新しい通知が上に表示された。
『凪母』
「……は」
その瞬間。
トイレのドアが開いた。
慌てて姿勢を戻す。
コーヒーを飲むふりをする。
「何してんの」
背後から久遠に不意を突かれ、
びくっとする。
「うわぁっ!びっくりした」
コーヒーを少しこぼす。
久遠が眉をひそめる。
「何にそんな驚いてんの」
「いや急に出てくるから」
「普通にトイレから出てきただけなんだけど」
「足音しなすぎだろ!」
「ビビりすぎだろ 」
慌ててティッシュでテーブルを拭く。
「はー… 久遠もう出る?」
「うん」
俺も立ち上がる。
見送るために玄関へ向かう。
「忘れ物ないー?」
「ない」
思い出したように言う。
「あ、金魚もった?」
久遠は小さな袋を持ち上げた。
透明な袋。
中には、動かない金魚が一匹。
「ちゃんと自然に還してあげてなー」
「ん、ちゃんと埋めてくるわ」
俺は満足そうに頷く。
久遠がドアを開ける。
「じゃ、いってくる」
「気をつけてねー」
ドアが閉まり、
部屋が静かになる。
俺は伸びをする。
「…よし」
水を飲もうと思ってキッチンへ向かった。
シンクにコップを置く。
そのとき。
排水口の奥に赤いものが見えた。
「……?」
少し覗き込む。
排水口の網。
その奥に、なにか引っかかっている。
赤い尾ひれ。
金魚。
体は乾きかけている。
でも。
尾ひれが少しだけ動いた。
ぴく。
ぴく。
俺は黙って見ている。
ふと、さっきの会話が頭に浮かぶ。
「「今朝もう一匹も死んでた」」
さっき、
久遠が持っていった袋には。
一匹しか入っていなかった。
蛇口をひねる。
水が流れる。
尾ひれはゆっくり、
排水口の奥へ。
消えていった。
俺は何も言わない。
言えない。
コップに水を入れて。
一口飲んだ。