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第4話 知らなくていいこと
玄関を開けた瞬間、家の中は静かだった。
母さんは夜勤明けだから、まだ寝ているはずだ。
「…ただいま」
靴を脱いで、できるだけ音を立てないようにドアを閉める。
リビングに入ると、洗っていない食器がシンクに残っていた。
「……よし」
母さん、疲れてたんだろうな。
水を出して、皿を洗う。
妙に静かな家の音がやけに大きく聞こえた。
スポンジが擦れる音とか、皿が当たる音とか。
洗い終わった皿を立てかけ、
ふう、と息を吐く。
「…洗濯も、やっといた方がいいよな」
カゴの中身をそのまま突っ込んで、目分量の洗剤を入れて、スイッチを押す。
ぐるぐる回り始める音がする。
一段落ついて、なんとなく落ち着く。
「そういや、まだコーヒーしか飲んでないな」
冷蔵庫を開ける。
母さんの僅かな作り置きであろう、
ラップがかかった味噌汁。
「固形物じゃないけど…まあいいか」
味噌汁を温めて、テーブルに座る。
そのとき。
机の上のスマホが、目に入る。
母さんのだ。
近くに置いておいてあげないと。
持ち上げたと同時に画面が光り、通知の名前が目に入る。
…久遠。
「やっぱり」
思わず小さく呟く。
別に悪いことじゃないけど、母さんと久遠、最近やたら連絡取ってる気がする。
なんの話してんだろ。
ロック画面の下に、メッセージの一部が表示されている。
『後で家帰るみたいです』
『凪、今日は昼からバイトです』
俺のことだ。
「なんか実況されてんだけど」
苦笑する。
その下にも別の通知。
『起きてからは特に何もないです。あと、凪の身の回り…』
そこまでしか読めない。
めちゃくちゃ気になるけど、生憎ロックがかかってる。
でもまあ、深堀るのはやめておこう。
にしてもほんと、過保護な母と幼なじみだな。
でも仲悪いよりはいいか。
ちょっとだけ変な気分だったけど、まあいい。
味噌汁をすすっていると、奥の部屋から物音がした。
「…ん」
ドアが開く音。
母さんが、眠そうな顔で出てくる。
「あら、凪。帰ってたの?」
「うん、ただいま。てか母さんのスマホ、ここにあったよ」
「ああごめんね、ありがとう」
通知は見なかったことにして、白々しい顔でスマホを受け渡す。
母さんはリビングを見て、少し目を丸くした。
「洗い物…あれ、洗濯まで?」
「ついでだよ」
「ありがとう。ほんと助かるわ」
母さんは軽く微笑んで、椅子に座る。
79
まだ少し寝ぼけてるみたいだ。
俺は味噌汁を飲みながらスマホを見る。
バイトまでまだ時間がある。暇だ。
そのとき。
なにやらスマホを確認しながら、母さんが立ち上がった。
何も言わずに押し入れを開けて、
段ボールを引っ張り出している。
「……?」
母さんが箱の中身を一つずつ手に取っている。
小学校の時の図工の作品。
絵日記。
写真。
「何してるの」
「…整理整頓でもしようかなって」
「そう」
整理整頓。母さんはそう言うけど、俺はなんだか違和感を感じた。
普通なら、こういうのって少しは 見返したりするじゃん。
「これ覚えてる?」とか。
「懐かしいね」とか。
でも母さんは違った。
ほとんど見もしない。
手に取って、
一瞬目を落とす。
それだけ。
母さんは袋を取り出した。
「え、捨てんの?」
思わず声をかけた。
母さんの手が止まる。
「…うん」
「なんで」
母さんはなにも答えない。
やがてまた作業を再開する。
「いや待ってよ」
俺は立ち上がった。
「それ普通捨てるか?」
母さんは袋を縛りながら言う。
「あっても、もう見ないでしょ」
「見るだろ」
箱の中を覗く。
やっぱり、懐かしいやつばっかりだ。
「急にどうしたんだよ」
母さんは一瞬黙る。
それから、少しだけ視線を逸らされた。
「…ゴミの日近いし」
「は?」
「ほら、押し入れも散らかってきたじゃない」
言いながら、また別の箱を引き寄せる。
なんか変だ。
そんな感じじゃなかっただろ、今まで。
「いや、でもさ…」
俺が言いかけたとき。
母さんが、一冊のアルバムを取り出した。
小学校の卒業アルバム。
母さんはそれを見たまま少し止まった。
ある一枚のページをまじまじと見て、
小さく息を吐く。
そして。
何事もないみたいに、
ゴミ袋に入れようとした。
「え」
ふいに声が出た。
母さんの肩が、びくっと揺れる。
ゆっくり振り向く。
「それも…捨てんの?」
「……うん」
「いやいや」
思わず笑う。
「卒アルだよ?」
母さんは視線を逸らす。
「もう、いいじゃない」
「意味わかんねーよ」
思わず、口調が荒くなる。
俺は乱暴にアルバムを取り上げた。
「なんなんだよさっきから」
「別になんでもいいでしょ」
母さんの声が少し強くなる。
「凪、それ貸して」
手が伸びてくる。
俺は引いた。
「やだよ。俺持っとく」
「凪」
さっきより焦ったような声色。
「貸しなさい」
「やめろって!」
母さんが無理やり掴もうとする。
その瞬間。
手が滑った。
ばさっ
アルバムが床に落ちる。
ページが開く。
遠足の写真。
小学生の俺。
隣には、久遠。
そして。
⎯⎯⎯知らない男の子。
三人で、笑っている。
ピースしている。
「…誰、誰だよ」
呟いた瞬間。
頭の奥がきしむ。
ぎゅっと、
なにかに締め付けられる。
溺れているかのように、呼吸ができない。
耳鳴り。
濁流の音。
ばしゃ
ばしゃ
夏のにおい。5月なのに。
目が眩むほどの、まぶしい光。
情報量が多すぎて、胃の奥がひっくり返る。
「おぇっ」
咄嗟に、手で口を塞ぐ。
「おぇっ……げほっ……!」
吐瀉物が勢いよく吐き出される。
涙が滲んで 呼吸が乱れる。
頭の奥でずっと、何かが暴れている。
母さんが近づく。
「凪…!大丈夫、大丈夫だから」
手が肩に触れた瞬間。
体が勝手に動いた。
俺の手は、母さんの首を掴んでいた。
「……はっ」
皮膚が柔らかい。
指に力が入る。爪が食い込む。
母さんの呼吸は浅くなっていく。
「な…ぎ…」
母さんが俺の腕を掴み返してくる。
このままだと、
母さんが、死ぬ。
でも、体は 止まらない。
掴め。
掴め。
掴まないと。
視界の端で、必死にスマホ取り出す母さん。
震える手でロックを解除して、
LINEを開いている。
息が苦しいはずなのに。
それでも、
メッセージを打つ。
宛先は、久遠。
『くおんくんきてなぎが』
変換もされないまま、その乱文が久遠へと送信されていた。
床にはアルバムが開かれたまま。
遠足の写真。
三人の笑顔。
俺と、 久遠。
そして。
知らない男の子。
お前、誰だよ。