テラーノベル
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泥濘を歩む猫のようにゆっくりと進む馬車は時折、石を踏んで激しく揺れる。そのたび、引導の人は両手両足で踏ん張りる。ロネアードには少し天井が低く、時折頭をぶつけているが、何でもない表情を堅持している。加護官の中でも一際背の高い男、ロネアードに車内は――痩せ型であることを差し引いても――窮屈で、故郷では馴染み深かった鶏舎を想起させた。
進行方向とは逆を向いて座っているロネアードの斜向かいで、少女が羽板窓の隙間から外を眺めていた。横縞の光を浴びて、真っすぐに切り揃えられた髪が揺れ、時折その幼気な横顔が覗く。栗色の瞳は柔らかな弧を描いているが、血の色を帯びた小さな唇は引き結んでいた。身に着けた衣には黒地に激しく燃え盛る炎の派手な刺繍が施されている。それが加護官たる男ロネアードの守護する対象、ノンネットの、護女たる立場を示す衣装だ。そして細い膝の上に抱えられるようにした燈が、真っ赤な焼成粘土と硝子の火屋から薄暗い車内に血潮のような真紅の明かりを投げかけている。尋常の炎とは違う、闇を内包しているかのような赤黒い光だ。
ノンネットがちらと男の方を見、目が合うと少女は何もかもを赦すような慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「どうかなさいましたか? 何かご不安なことが、あ、それとも拙僧に何か聞きたいことでもございますか?」
「いえ、何も」とまるで独り言のように呟いて、ロネアードは逆の方の窓を見る。
正しい態度ではないということは分かっていたが、身に染みついた癖は泥のようには洗い落とせない。
窓の向こうには昼日中でも薄暗い黒樫の森が見える。ヴィンゴロ山系の東部に横たわる黒樫の樹海、腹の中が不気味な気配を漂わせている。多くの神々を呑み込んだがために慈悲無き魔女パデラの怒りを買い、魔法の鎖で大地に縫い付けられ、火刑に処された巨人の末後の姿だ。それからこの土地には炭のように黒い木々しか栄えなくなったという。
神々を知る古い森を突っ切る道は今も往来があるにはあるが、土地に根付く者の利用は滅多にない。轍は深いが、整備が滞っていることは馬車の揺れからも察せられた。
ロネアードはふと護女の方に目を向ける。誰かに呼ばれたような気がしたのだ。ノンネットは再び窓の外を見つめている。ロネアードは頭の中の何かを正すように首を振る。確かに声は聞こえなかった。
任務に集中しなくてはならないのに、この森に入ってから、このようなことが何度も起きている。何者かの気配。微かに触れられたような、囁かれたような。ロネアードはこの地の古い伝承など知らないが、まるで見知らぬ語り部に不可思議で奇妙な言い伝えを吹き込まれているような錯覚を覚える。
新人はまだ連携が取れないだろう、と見なされ、ロネアードは馬車の外で周囲を警戒している加護官たちとは別に、いざという時に護女の盾となる任務を仰せつかった。
「もしや、ですが」ノンネットがロネアードと目を合わせる。「拙僧に異様な気配を感じているのでは? だとしたらそれは拙僧を取り巻く端霊の気配を感じ取っているのかもしれません」
「端霊、ですか?」ロネアードは眼を反らしたくなるのを堪え、ノンネットの鼻の辺りを見つめる。「それは一体、いえ、ノンネット様にこの気配を感じているのかも、よく分からないのですが」
それにどちらかというと男の声だったようにも思う。
「貴方には霊的素質があるのかもしれません」ノンネットは碩学な老教授の如く固い顔で言った。「端霊は常に囁いていて、慣れねば中々煩わしいものですから。それも言葉としてはっきり聞こえれば少しはましなのですが、気配だけとなると不快に感じるかもしれません」
「霊的素質なんて、まさか」ロネアードは顔に集る虫を追い払うかのように大きくかぶりを振る。ノンネットの鼻の下の笑みに気づき、ロネアードは狼狽する。「すみません。護女様のご意見を否定したわけではなく――」
「いいえ、そのようなことではありません。こうして話すのは初めてのことなので。少しお話しませんか。多少は気が紛れるかもしれません。というより、拙僧が貴方と話したいのです。沢山お喋りした先でしか心通じ合わせることはできないと思うのです」
「それは、もちろん、断る理由はありません」ロネアードは背筋を正す。
ノンネットはロネアードの方へ少し身を乗り出す。
「元々エーミの加護官だったそうですね。貴方から見て、どんな子でした?」
エーミとは、かの護女攫いにかどわかされたとされている護女のことだ。とはいえ、エーミの不良ぶりは周知の事実、実際には護女自身が寺院から脱走したのだということは公然の秘密だ。
「加護官とはいってもほとんど話したことはありません。他の護女と違い、修練の旅に出ることもなかったので。ただ、一度だけ、加護官任命の際に――」
突然、車輪の転がる単調な音を引き裂いて、警告を発する喇叭の如く馬の嘶きが響く。同時に馬車が激しく軋んで大きく傾き、何かに衝突した。ロネアードは咄嗟にノンネットが吹き飛んだ方向に飛び込み、緩衝材になる。ノンネットはまるで赤子を守るように燈を抱えこんでいた。
騒々しい事態にノーグマールの森の静寂は破れ、獣や鳥の声、葉擦れの響き、また正体不明の声が薄暗闇の彼方から溢れてくる。
「一体何が――」と言いかけたノンネットを黙らせるように抱えこみ、剣を引き抜く。
「静かに。真ん中の辺りで丸くなっていてください」
ロネアードは羽板窓から慎重に外を窺う。加護官たちが馬車の方へ集いつつあった。
「ノンネット様。お怪我はありませんか!?」と外の加護官に呼びかけられる。
「ありません! 一体何が!?」とノンネットが答える。
「倒木です。すぐに撤去いたしますので――」
その時、今度は男の野太い悲鳴が聞こえた。苦しみが響きとなった悍ましい叫び声だ。
「敵襲! 山賊だ!」
ロネアードは反射的に外へと飛び出しかけ、思いとどまる。加護官同士の連携の一翼にはなれない故に護女ノンネットの最後の盾となる。それが今の任務だ。
「不安がることはありません。いずれも多くの困難を愚痴一つ零さずに越えてきた精鋭ですから」と守る対象のノンネットに励まされてしまう。
だが相変わらず存在を主張する森に漂う正体不明の気配とは違って、ロネアードの不安は徐々に薄れていく。羽板の隙間から見える戦闘は確かに優勢なようで、救済機構の加護たる剣を味わった山賊たちが黒い森の大地に血を捧げて倒れていく。研ぎ澄まされた剣と毀れた農具や棍棒が示す戦闘技量の差は明白だ。
その光景を見て、ロネアードは不思議なことに気づく。確かに加護官たちの連携は見事なものだった。ほとんどの山賊が対峙している加護官とは別の加護官に死角から切り伏せられている。数的不利にも関わらず、巧妙な立ち回りを駆使した結果だ。だが、それだけであれば護女の言う通り困難を越えて身に着けた視野の広さと剣の腕前の為せる技なのだろう。しかし少なくない加護官が自身の死角から迫る剣を避けてみせ、あまつさえ視野の外の敵を切り倒している光景は信じ難いものだ。連携などという言葉で説明できるのだろうか。
不思議と言えば山賊たちもまた奇妙だ。劣勢にあり、仲間の血に塗れながら薄気味悪い笑みを浮かべている。とても余裕のある状況にはないが、まるで息絶えた獲物を前にして舌なめずりする獣のようだ。
その時、羽板の破壊される激しい音が鳴り、振り返る。左右の扉についた窓ではない。御者や前方の様子を垣間見る覗き窓だ。そこから男が覗き込んで、目の前のロネアードとノンネットに気づくとにやりと笑みを浮かべる。
「聖女だな。思いのほか小さいが、この男よりはましだな」男は値踏みするようにノンネットを眺めた後、ロネアードにも目を向ける。「お前も護衛か? お前は後でオレ様が直々に殺してやるよ」
そう言うと山賊どもの首魁らしき男は覗き窓から離れた。
「聖女ですって? 拙僧を聖女様と間違えていることはともかく、つまりこれは聖女様を狙っての暴挙ということですか!? 救済の乙女の御降臨に備える聖務に携わる聖女様に対して何たる不敬! 浄化の時を待たずして打ち滅ぼされるべき悪行、許せません!」
ロネアードには確かにそう聞こえた。ノンネットの声だ。しかし、ロネアードの視野の端で、赤い光に下から照らされたノンネットはただ覗き窓を睨みつけているだけで、口は動いていなかった。
次の瞬間、激しい地響きが聞こえたかと思うと羽板窓が全て何かに防がれ、車内は暗闇と無音に包まれた。が、依然として、ノンネットの怒りの声がロネアードを苛むように障る。
「落ち着いてください、ノンネット様」ロネアードは混乱しつつも平静を保つ。「下手に挑発しては奴ら、何をしでかすか」
「え? もちろん落ち着いていますとも。貴方こそ大丈夫ですか?」
せっかくの燈をノンネットは相変わらず両腕で抱え込んでおり、赤黒い光は僅かに隙間から零れるばかりだ。暗闇を照らすのに使う様子はない。
「……少々お待ちを」
続いてロネアードは心の内に向けて囁く。それは家伝の目覚め歌に隠された素朴な呪文だ。故郷ではよく知られた童歌の詩の順序を並べ替え、秘密の律動で唄う。すると広げられた両の掌を舞台に火が踊る。火は小さな五人の踊り子を形作り、円舞する。千古の昔、慈しみ深い母が娘らのために形作った不思議な火だ。
「まあ、可愛らしい」さっきの怒りはどこ吹く風、ノンネットは微笑みを浮かべてロネアードの火を覗き込む。「変わった火付けの魔法ですね」
「亡くなった祖母に教わった家伝の呪文です。手間と複雑さの割に特筆すべき効果はありませんが慣れているので」
ロネアードは火の踊り子たちを左手の平に移し、窓の方を照らす。羽板は破壊され、代わりに樹皮が窓を覆っていた。
「森の黒樫ですね」ノンネットが樹皮を見て言い当てる。「樹木を操る魔術師ですか。賊にしては高度な魔法です。何か手はありますか?」
ロネアードは樹木を調べてから残念そうに首を振る。「申し訳ありませんが、この状況で生木を取り除くような魔術は何も身に着けておりません」
「では仕方―。外の――たちに――他ありません。……どうかしましたか?」
ノンネットはロネアードの顔を怪訝な目で見つめる。
「すみません。ますます気配が強まって、ノンネット様のお声が聞き取りづらく……」
「ますます? はて、――ですね。端霊それ自体の――僅かなもので、よく聞くには――鍛える他ないのですが。本当に――素質に覚えは――ですか?」
ロネアードには未だ迷いがあったが、心の奥底に仕舞い込んで、怒りと悲しみで封をしていた秘密を取り出すことにした。
「……実を言うと、幼い時分のことですが霊的素質には少し覚えがあります。定かな記憶ではありませんが、幼い頃は人間と亡霊の区別が付かずに、見えない友達とよく遊んでいたとか。唯一理解を示してくれた祖母にも似たような性質があったそうで、私の家系には時折現れるそうです。良い思い出はほとんどありませんし、いつの間にか感じ取れなくなっていましたが」
「なるほど。――背後に――女性だったなら護女に勧誘されて――地面の音に――しれませんね。では逆に――あらかた片付き――を取り戻すことに――首魁はどこに――覚えがありませんか?」
もはや文脈がほとんど読み取れないが、ロネアードは直感で答える。
「それは何も。霊との関わり自体が……、それこそ護女様をお守りする加護官になるまでは」
聖女の候補者たる護女は特に霊的素質のある女性であることが条件の一つであり、その才能を活かして、あるいは修行の一環として地上に彷徨える亡霊を昇天させることを勤めとしている。
「嗚呼!」ノンネットが悲鳴をあげ、顔を覆う。燈の赤い輝きが大きく揺れる。
「どうしました!?」
ノンネットは自身の死を予見した予言者のように青褪めた顔で心苦しそうに言葉を絞り出す。「……とうとう犠牲が――一度退いてください――ました。残るは首魁――様子を見つつ、策を練りましょう――徘徊する木々に隠れて手出しができずにいます」
「何故それを!? どうやって……、いや、もしかして外の加護官と意思疎通をしているのですか?」
「ええ。今のような戦闘の際には端霊を通じ、状況を交信しているのです」と他愛ないことで驚く子供に教えるようにノンネットは淡々と言った。「新人の貴方に説明していなかったのは、十分な説明の下に心からの同意を得る必要があり、端霊を抽き出す儀式が複雑であるためです。任務が落ち着いたら話すつもりだったのですが」
「どうやら私が聞いていた声はその声のようです」
「まさか! 声をも!?」ロネアードが期待していた以上にノンネットは驚き、信じられないものを見るような目をして狼狽していた。「確かに、言うなればこれもまた霊の声ですが。私と結びついた端霊の声を、となると――」
「じゃあそろそろ俺の声にも耳を傾けてはくれねえか?」唐突な声にロネアードとノンネットは揃って顔を向ける。
現れた男は樹皮に覆われた前方の覗き穴から顔を出していた。つまり体が透け、木を貫通しているのだ、まるで幽霊のように。そしてその顔は明らかに山賊の首魁だった。
「何者だ?」とロネアードは何とか言葉にする。
「この顔見れば分かるだろう? あの体の主だった者さ。さっさとあいつをとっ捕まえて忌々しい魔性を俺の体から追い出してくれよ」と亡霊は山賊の首魁に負けず劣らずふてぶてしい態度だ。
「そうしたいのですが、こちらもてこずっているのです」ノンネットは平時と変わらない態度で答える。「残るは貴方の肉体を乗っ取った首魁のみですが、木々に隠れているようで」
「この霊を通じて居場所は分かりませんか。端霊と交信する要領で」とロネアードは領分を越えることを恐れつつ呟く。
「あ、その手がありますね」
位置が分かれば多勢に無勢、ノーグマールの森の襲撃は呆気なく終息した。
山賊の首魁は埋葬され、その霊はノンネットの導きにより昇天した。話には聞いていた魔導書に封じられた悪霊――それは徘徊る者と名乗った――の力で黒樫の森を元に戻した。
「それで、ただ一度だけ、何ですか?」
全ての儀式を終え、再び出発するべく怪我人たちに馬車を譲ったロネアードはノンネットを肩車する。頭の上に燈を置かれる。これもまた修行だ。
「何の話ですか?」と忠良なるロネアードは問い返す。
「エーミとただ一度だけ、加護官任命の際に、の続きです」
まだ覚えていたようだ。ロネアードは正直なところあまり気乗りはしなかったが、仕える護女が御所望なのだ、無碍にはすまいと考えを改める。
「……祖母を亡くした悲しみが、私の救済機構に帰依するきっかけでもあったのですが、加護官任命の際、私の顔を一目見て、エーミ様はこう言ってくれました。毛布をかけてくれた人がいなくなっても毛布は残るものだし、毛布がなくなっても温もりは残るものだよ、と」ロネアードは慣れないお喋りが過ぎた。それ故に口を滑らせる。「だからもしも救済機構から脱することがエーミ様の望みなら、私は尊重したい、と……。あ! いえ、その、すみません」
暫くの重い沈黙の後、ノンネットは無感情に呟く。「聞かなかったことにいたしましょう」
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