テラーノベル
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グリュエーたちには未だ馴染みのないガレインの朱い夕暮れが山々の間の隘路の如き窮屈な野原を火を灯すように染めて行く。低い雲の綾なす陰影が去り行く昼を惜しむように空を彩っている。グリュエーは一人、一人立ち去る知己なき隠者の背中のような日没を見つめ、足元に忍び寄る夜の気配に身を震わせている。と、突然分厚い布に視界が覆われ、真っ暗になった。背後から忍び寄ったユカリの外套に包まれ、二人羽織りにされたのだった。ついでのように頬を捏ねられる。外套は温かく、手は冷たかった。
「ちょっと! 何すんの!?」
グリュエーの抗議にユカリが可笑しそうに笑う。「仕返しだよ」
「何の? いつの?」
「よく服の中に吹き込んできたでしょ?」
「風のグリュエー? あれはちょっとおかしかったんだよ。本来のグリュエーは馴れ馴れしくしないんだから」
実際のところはグリュエーの分けた魂に主従などなく、せいぜい量の多い方が重しになるという程度のことだ。
「どうだかねえ」とユカリは揶揄うように言う。「それより偵察は終わった? もうすぐ食事ができるよ。美味しそうだよ」
「うん。丁度戻ってきたところ。特に異常無し」
「本当に?」ユカリの声色が僅かに陰る。
「え? うん。本当だよ? 何? どうかした?」
「不安そうに見えた」
「そんなこと……」
四方を巡らせた風に乗せた魂は何も不安を催すようなものは見つけていない。だが不安はずっとグリュエーの中で静かに息を潜めていた。具体的にはアイモールの街でノンネットの加護官を見つけた時から。
皆に相談をするのは気が引けた。魔導書収集とは関係がなく、それでも真摯に耳を傾けてくれるだろうからだ。そして何より、どのように対処するか、解決するかの意見は大きく分かれ、時にぶつかるからだ。
「何か悩みがあるなら聞かせてよ」とユカリは言う。「力になれるかは分からないけど、ひとに話すだけでも別の見方が現れたりするよ?」
確かにそうかもしれない。グリュエーは頭の中で言葉を整理し、一つずつ口にする。
「ノンネットが、もしもガレインに来ているのなら、ネガンヌさんのこと、クヴラフワの、あの、護女たちの……」そこまで言うと感情が、目の奥と喉の奥から溢れるのを堪えるので精いっぱいになった。
クヴラフワで魂の抜けた護女の肉体が呪い避けの魔術に利用されていたことは不安以上に怒りや悲しみでグリュエーの心に深く刻まれている。不安なのはノンネットのことだ。
「あのことについてノンネットに忠告したいってことだね」とユカリが察してくれる。「ノンネットに接触して話せたらいいんだけど。どこにいるかが分からない。分かったところで救済機構に接近するのは危険。そもそもどこにいるのか、見つけるにはどうすればいいか、ってところか。とりあえず観る者か占う者に聞いてみようか」
「いいの? 魔導書を使っても」
「そりゃあいいでしょ。別に悪用するわけじゃないし。一応皆にも聞くけど、大丈夫じゃないかな」
夕食を囲みながらあらましを伝えると除く者が助言をくれる。
「それには及びません。救済機構のガレイン半島での拠点はガレイン半島東部を領する家畜の山王国にある城砦都市刺し傷です。護女がやってくる理由が何であるにせよ、そこへ赴くか、そこを経由するのは間違いありません。まあ、もちろん使い魔の力はご活用していただいて構いませんが」
「じゃあ、でも、どうするの?」とベルニージュが疑問を呈する。「ここはガレイン西部で、ワタシたちはユカリ派と合流するために北上してる。今からガレイン半島を横断してノンネットに会いに行くわけにはいかないでしょ」
「深奥は通れない?」と聞いてユカリははっとする。「というか縁の次元を通れば探すまでもないんじゃない? 私たちならともかく、グリュエーとノンネットは十分に縁があるでしょ?」
グリュエーは少し呆然として首を振る。「救済機構ではほとんど誰とも関わらないようにしてたから。ユカリたちとノンネットより会話の数が少ないかもしれないくらいで」
「そもそもあの儀式はそう簡単なものじゃない」とベルニージュは弱気なような強気なような声で言う。「あの時はジニさんがいたし、クヴラフワの無数の呪い自体が生み出す混沌を利用できたからこそだよ。時間か人手、できれば両方、必要だよ」
「使い魔さんたちがいますわ」とレモニカが希望を見出したように言う。
「確かに」とベルニージュは認めるように頷く。「全員で協力すれば数日程度には短縮できるかも」
「それでもそんなにかかるの?」とグリュエーは驚く。
「皆、クヴラフワの呪いの混沌状態を過小評価してたんだね」ベルニージュは苦笑する。「救済機構の総力でも通路のような呪い除けが精一杯だったでしょ?」
囲む焚き火は明々と燃えているが、皆の心は熱の届かない水底まで暗く沈む。事情に精通していないアギノアはまごまごとしつつも励ますように提案する。
「何かお伝えするだけならお手紙はどうでしょう? これから向かう街は大きな街なのでしょう? 飛脚を雇えるかもしれません」
「そうです!」と除く者が自分ごとのように嬉しそうに言う。「運ぶ者を使うのはどうでしょう!? あれの足の速さは皆さんもよくご存じでしょう?」
「魔導書を救済機構に送りつけるって言った?」とベルニージュが皮肉るが、グリュエーに濡れた仔犬のような瞳で見つめられると軟化する。「魔導書を一枚失う危険性をユカリが呑めるなら文句はないよ」
文句はなかった。
明くる日、グリュエーは独り立ちする子供を送り出す母のように運ぶ者を見つめる。丸太に貼り付けた使い魔だが、よほど近くでじっくり見て、薄っすらと浮かぶ木目に気づかない限りはただの少女に見える。
「安心してくださいっす! グリュエーちゃん。お手紙を渡すくらい簡単っすから。ばっちりっす」
「手紙を渡したこと自体、ノンネット以外に知られたくないから気を付けてね。それがばれてしまうくらいなら諦めて戻って来てね。ノンネットの立場が危うくなると思うから」
「了解っす! では!」
まるで旋風のように運ぶ者は飛び去って行く。その姿が山々の向こうに消えるまで見送ろうと考えた。その時、突如、野原の真ん中から地響きと共に積み上がった石材が生えてくる。まるで噴火か噴泉のように石材が噴き出したかのようだった。そうして積み上がった石の壁は運ぶ者を取り込んでしまった。グリュエーたちが見ている前で伸びあがった石材はなおも成長し、壁となり、砦のようなものを構える。砦のようだが、明らかに居住性を備えていない以上、単なる壁により近い。
「衛る者です! ありとあらゆる防備の魔術を修めています!」と除く者が警告を発する。
「ユカリ! 白紙文書貸して」と言ってグリュエーは駆け寄り、その内の一枚を剥がす。「皆は注目を集めておいて」
グリュエーは封印を自身に貼り、未知の呪文を我が物にすると掘削魔術を行使する。輝く螺旋を手に地面を掘り削り、まるで水中を掻き進むように土中を泳ぎ、砦の下まで掘り抜くと地上へと飛び出す。
五方を囲む壁の中は一分の隙もない暗闇だ。運ぶ者が何の工夫もなく石壁に体当たりしている。それが命令を実行するための運ぶ者が思いつく手立てなのだ。
「こっちだよ。運ぶ者」とグリュエーは呼びかける。
「よくぞ御無事でっす!」
「窮地だったの運ぶ者だよ!? ほら、おいで」
再び土中へと潜り、来た方とは逆に掘り進んで砦から離れる。そもそも救い出したことに気づかれているか分からないので、とにかく離れた。そしてこっそりと地上へ戻る。
「やっぱり不安だよ」とグリュエーは呟く。「手紙、大丈夫かな」
「まあ、しょうがないっすよ」同意を示したようで運ぶ者はまるで共感していないことは分かる。「他に手立てがないんすよね?」
「……もう一度手紙貸して」グリュエーは受け取った手紙をじっと見つめて念じる。
「何してるんすか?」
「秘密」と呟き、そして、「それじゃあ、しっかり頼んだよ」と手紙に対して呟いた。
「お任せあれっす」と運ぶ者は元気に答えた。
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