若月家のリビングは、いつも陽だまりの暖かさに満ちている。
それは、妹の陽姫_ひなひ(通称ひな)_が、まるでその名の通り、太陽であるからだ。
ひなが作るトーストは、いつもおひさまのような輝きとあたたかな香りがして
彼女が笑うと、家中の家具までが喜んでいるように見えた。
今も、ひなはテレビで見た新しいレシピについて熱心に話している。
里親の母親・美佐子は優しく相槌を打っている。
七年前、実母を亡くした七歳ほどの俺たち双子が、この美佐子の家に里子として引き取られたのは、偶然の縁だと思っていた。
美佐子の優しさは本物だ。俺にもひなにも、分け隔てなく、決して干渉しすぎない距離感で接してくれる。ひなはすぐに彼女に懐き、今では美佐子のことを「お母さん」と呼んでいる。
しかし、俺、朔_さく_だけは、彼女をそう呼べない。
二階の自室の扉をわずかに開け、階下の光景を見つめる。俺は、その幸せな空間に、自分が存在していることが不自然だと感じていた。
俺の部屋は、リビングの光が届かない場所にある。俺がここにいるのは、俺だけが秘密の重さに耐えきれず、自ら影を選んでいるからだ。
「おにいちゃん、いるんでしょ?今日は美術部、早く終わったんだね」
ひなが気配に気づき、振り返った。彼女のオレンジ色の瞳は、いつも真っ直ぐに俺を捉える。
その視線に、俺はいつも怯える。彼女の光が、俺の影を暴いてしまうような気がして。
「ああ。課題があるから、もう部屋に戻る」
俺は簡潔に答え、すぐに扉を閉めた。美術部の課題というのも、全くの嘘ではないが、真実でもない。
俺の机の上には、未完成の風景画のスケッチブックがある。
しかし、俺が本当に見つめているのは、別のスケッチブックだ。
俺は机の引き出しの奥から、くすんだ銀色の古い鍵と、古いスケッチブックを取り出した。
七年前、実母は病室で息を引き取る直前、この二つを俺の手に握らせた。
*「ねぇさく、ひなには内緒よ。この鍵と、この言葉…いつか、あなたが守ってあげて。あの子には、*本当の光が必要だから…」
俺だけが、この秘密を抱えている。
スケッチブックの最終ページは、実母の震えるような走り書きだった。
「美佐子さんへ。ひなは、絵が描けなくても、誰よりも色を知っている子です。あの子がこの先、光を失いそうになった時、この鍵を使って、あなたの大切な物を「希望の小箱」を、あの子の手に。お願い、陽姫の未来を、守ってあげて。」
『光を失う時』。
ひなは今、誰よりも光っている。実母のこの遺言は、いつ訪れるか分からない未来の不安を示している。
そして、その『大切なもの』は、俺たちに里親としての愛を注いでくれる美佐子さんの家族に関わっている。
俺は、この家の安穏な日常を壊してはいけないと思っていた。だからこそ、美佐子さんに鍵を渡すこともできず、ひなにも秘密を打ち明けられずにいる。
おにいちゃんは、また自室の扉を固く閉ざした。
私は微笑みを保ったまま、美佐子さんと話しているふりをする。けれど、心の中では、いつもおにいちゃんの青い影が気になって仕方がない。
彼は私と違って、美佐子さんに決して心を開かない。それは、私たちを育ててくれる美佐子さんに対して失礼だと、私は心のどこかで怒っていた。
でも、本当に怒っていたのは、彼が私を頼ってくれないことに対してかもしれない。
お母さんが亡くなる前の数週間、病室にいたのはおにいちゃんと私だけだった。その時、お母さんが兄にだけ何かを渡したのを、私は確かに見ていた。古い鍵と、スケッチブック。
私は、明るく、誰にも弱音を吐かない子、という役割を演じてきた。美佐子さんの優しさに報いるため。
そして、おにいちゃんの暗さに引きずり込まれないため。
しかし、最近のおにいちゃんは限界に近づいている。
彼が何かを決意して行動しようとしているのは、隠し持っている鍵の感触を確かめる仕草でわかる。
もし、兄が抱え込んでいる秘密が、私たち双子の過去、そして美佐子さんの未来に関わることなら、私も知る権利がある。
私は美佐子さんに「頭が痛いから」と断り、二階へ上がった。
兄の部屋の前で、私は立ち止まる。扉の下から、机のランプの細い光が漏れている。
(おにいちゃん。もう、一人で抱えなくていいんだよ)
私は、そっと扉をノックした。
「おにいちゃん。あのね、学校でね、先生に相談したいことがあって……ちょっとだけ話を聞いてくれる?」
できるだけ、普段通りの、明るい声で。
俺は、スケッチブックの言葉を再び見つめていた。その時、扉の外からひなの声がした。
「おにいちゃん。あのね、学校でね、先生に相談したいことがあって……ちょっとだけ話を聞いてくれる?」
いつもなら、「忙しい」と突っぱねる。しかし、ひなのいつも通りの明るい声の裏に、どこか切羽詰まった響きを感じた。
俺は慌てて鍵とスケッチブックを隠し、扉を開けた。
ひなは、いつものオレンジ色の瞳で、しかし、いつもより真剣な顔で立っていた。
「どうした。学校で何かあったのか」
俺がそう問うと、ひなは首を傾げ、そして、静かに俺の部屋に入ってきた。
「相談したいのは、学校のことじゃないよ、おにいちゃん」
ひなは、俺の背後にあるリュックサックに、一瞬だけ視線を向けた。俺が、鍵とスケッチブックを隠した場所だ。
「美佐子さん、私が頭痛だって信じてくれたよ。今、リビングには誰もいない」
ひなは、俺の秘密を共有しようとしている。
「おにいちゃんが、何か大きな秘密を一人で抱えて苦しんでいるのはわかる。お母さんが残した鍵とスケッチブックのこと。私にも教えて」
「それは……」
「”私たち双子なんだよ”。私がお母さんの『光』で、おにいちゃんが『影』で、お母さんの真実を知るのが怖いの?私は怖くないよ」 ひなは、強い口調で言った。
「おにいちゃんが一人で動いて、美佐子さんを傷つけることの方が、私にはずっと怖い」
俺は観念した。ひなに真実を隠し通すことは、彼女の「光」を曇らせることに繋がるかもしれない。
俺は、隠していたアルバムと鍵、そしてスケッチブックを机の上に出した。
「ひな。話す。美佐子さんには、絶対に秘密だ」
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続き楽しみ!