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「タラッサから、バルカへの援軍は来ないよ。」
イージプ総督アグリは、本国から届いた報告書を読み終えると、
何でもないことのようにそう言った。
副官が怪訝そうに眉を寄せる。
「なぜ、そう言い切れるのです?」
「いくつか理由はあるけどね。」
アグリは報告書を机の端へ置いた。
「一番の理由は――僕がここにいるからかな。」
「総督が?」
「そう。」
アグリは椅子にもたれ、指を一本立てる。
「ライナー王が僕をイージプへ赴任させた理由は三つある。」
「一つ。イージプから本土へ、安定して食料を送り続けること。」
二本目の指を立てる。
「二つ。本国へ続く海上輸送路を守り、制海権を維持すること。」
そして三本目。
「三つ――タラッサを封じ込めること。」
副官の表情が変わった。
アグリは立ち上がり、壁に掛けられた地図の前へ歩く。
「タラッサはここ数年で、急激に領土を広げすぎた。」
指が地図の上を滑っていく。
「領土というものは、奪えば終わりじゃない。守らなきゃいけない。」
「守るためには兵が要る。」
「兵を置けば、別の場所が薄くなる。」
アグリはそこで振り返った。
「そして今、タラッサの周囲を囲む三つの国は――」
机の上に、三通の書簡を並べる。
「全部、こちらの手にある。」
副官は書簡へ目を落とした。
一通目。
タラッサ北方の国より。
二通目。
東方の国より。
そして三通目。
南方の国より。
いずれも、アグリが密かに使者を送り続けていた国々だった。
「三国には何と?」
「たいしたことは言ってないよ。」
アグリは笑った。
「タラッサ軍が西へ動いたら、国境に兵を集めてくれ、と。」
副官が息を呑む。
「……攻め込ませるのですか?」
「まさか。」
アグリは首を横に振った。
「戦争なんかしなくていい。」
そして地図の上のタラッサを、指先で軽く叩いた。
「兵を集めるだけでいいんだ。」
「タラッサは考える。」
「北から攻められるかもしれない。」
「東から来るかもしれない。」
「南も危ない。」
「そんな状況で、海の向こうのバルカを助けるために何万もの兵を送り出せると思う?」
「……無理です。」
「そういうこと。」
アグリは三通の書簡をまとめると、何事もなかったように本国からの報告へ視線を戻した。
「戦争っていうのはね。」
「必ずしも、戦う必要はないんだよ。」
遠くグラン本土では、バルカとファービーが互いの知略を尽くし、血を流し続けている。
だが、その戦場から遥か離れたイージプでもまた――
一兵も動かすことなく、戦争は続いていた。
戦争の中心は、二つの都市へと移っていた。
カンパルニア平原に位置する、グラン第二の都市――カンパ。
そして南ナガグツ最大の重要港湾都市――タレント。
二つの都市と、その周辺を巡って、連日のように激戦が繰り広げられていた。
中でもカンパは、特別な意味を持っていた。
カンナルでグラン軍が壊滅した後、グランを見限り、バルカ側へ寝返った都市である。
それゆえ、グラン市民がこの都市へ向ける感情は、単なる敵意ではなかった。
憎悪だった。
裏切り者。
その名とともに、カンパ奪還を求める声は日に日に大きくなっていた。
一方、タレントもまた、バルカにとって失うことのできない都市だった。
南ナガグツ屈指の港を持つこの都市は、
海の向こうから兵糧、武器、援軍を受け入れることのできる数少ない拠点である。
カンパを失えば、カンパルニアにおける影響力を失う。
タレントを失えば、海への出口を失う。
どちらも捨てることはできない。
だが――。
バルカには、その二つを同時に守りながら、グラン軍を打ち破るだけの兵力は残されていなかった。
カンパへ向かえば、タレントが危うくなる。
タレントを救えば、カンパが包囲される。
どちらにも向かわなければ、二つとも失う。
かつてバルカは、敵に選択を迫る側だった。
トレビ川でも。
トラシム湖畔でも。
そしてカンナルでも。
敵がどう動くかを読み、その先へ回り込み、自らが望む戦場へ引きずり込んだ。
だが今は違う。
戦場を選んでいるのは、バルカではなかった。
グランだった。
そして何より残酷なのは――
バルカがそれを理解していながら、
どちらも見捨てることができないことだった。
ベントムで新たに徴兵した兵を率いていたハンノは、グラス率いる奴隷軍団と激突した。
結果は惨敗だった。
急造された兵では、グラスが鍛え上げた軍団には敵わなかった。
多くの兵を失い、ハンノはわずかな供回りとともに戦場を離脱する。
だが――このままでは戻れない。
兵を預かり、その兵を失った。
何の戦果もなく戻れば、自分がどう扱われるか。
ハンノ自身が一番よく分かっていた。
ならば、せめて敵将の首だけでも持ち帰る。
ハンノは一つの策を実行した。
数日後。
グラスの軍営で騒ぎが起こった。
「てめえ!」
「なんだと!」
怒号とともに、二人の兵士が取っ組み合っている。
周囲の兵が止めようとしているが、興奮した二人は聞こうともしない。
「おい、なんだなんだ。やめろ!」
グラスが人垣をかき分けて入ってきた。
「離れろ!」
それでも二人は掴み合っている。
「ったく……」
グラスは片方の襟首を掴むと、拳を叩き込んだ。
続けざまに、もう一人にも一発。
二人が地面へ転がる。
「軍隊で喧嘩してんじゃねえ。」
グラスは呆れたように二人を見下ろした。
「お前ら、今日から俺が許すまで飯は立って食え。」
周囲から小さな笑いが漏れる。
「笑ってんじゃねえ。お前らもやるか?」
兵たちは慌てて口を閉じた。
「ったく……」
グラスは頭を掻きながら、その場を離れようとした。
その時だった。
背後から足音が迫った。
振り返るより早く――
腹に、何かが入った。
「……?」
熱い。
グラスがゆっくり視線を落とす。
腹から短剣が生えていた。
先ほど殴り倒した男が、柄を握ったまま、全身でグラスへぶつかっている。
「グラス将軍!」
誰かが叫んだ。
男が短剣を引き抜こうとする。
グラスは反射的に、その腕を掴んだ。
「き……」
何か言おうとした。
だが、声が出なかった。
口だけが動く。
男の顔を見る。
見覚えがない。
――誰だ、お前。
そう言いたかったのかもしれない。
あるいは。
――逃げろ。
そう言いたかったのかもしれない。
次の瞬間、周囲の兵たちが殺到した。
刺客は引き倒され、何人もの兵に押さえつけられる。
「殺せ!」
「こいつを殺せ!」
怒号が飛び交う。
だがグラスは、もうそれを聞いていなかった。
膝が落ちた。
何人もの兵が、その身体を支える。
「将軍!」
「医者を!」
「グラス将軍!」
その声だけが、遠くなっていく。
グラスはぼんやりと、自分を取り囲む兵たちを見た。
かつて奴隷だった男たち。
まともに剣を握ったことすらなかった男たち。
命令も聞かず、隊列すら組めなかった。
自分が殴り、
怒鳴り、
走らせ、
飯の食い方まで叩き込んだ男たち。
今では誰も逃げていない。
誰一人として。
グラスの口元が、わずかに緩んだ。
それで十分だった。
その日。
奴隷から生まれた軍団は――
初めて、自分たちの将軍を失った。
コメント
1件
第75話、読み終わりました……。 グラス将軍の死、すごく重かったです。奴隷たちを一人前の軍団に育て上げた将が、まさかあんな形で…。最後の「口元がわずかに緩んだ」ところで、じわっと涙が出そうになりました。アグリの外交戦も面白いけど、やっぱり戦場の体温が伝わってくる描写が好きです。この作品、本当に登場人物一人ひとりに命が宿ってるなって思います。
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