テラーノベル
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大阪の空が茜色に染まる夕刻、マンションの一室では今日も同じ戦いが繰り広げられていた、生後八か月のヨンジュンは、まるで時計仕掛けのように夕方になると泣き始める
小児科医は赤ん坊には良くあることだと笑って言ったが、毎日それを一人で受け止める桜には、その「よくあること」が重くのしかかっていた
「おぎゃぁ~!おぎゃぁ~!」
抱いても、揺らしても、ミルクをあげても泣き声は止まらない、桜は汗ばんだ首筋にヨンジュンの顔を押し当てながら体を揺らし、リビングを行ったり来たりしていた
夫のジンは今日も遅い、窓の外の商店街のネオンがチラチラと灯り始めている
―私に何が足りないんだろう・・・町で見かける他のお母さん達はとても優雅に子育てしているように見えるのに―
その時、インターフォンが鳴った
「ガチャ・・・は~い」
掠れた声で答えてヨンジュンを片腕に抱えたまま、げっそりと頬がコケた顔をした桜がドアを開けたら驚いた
「ママ!」
そこには桜の母のフネが立っていた、いつもの品のある女将の象徴の着物ではなく、黄色のカーディガンに水色のジーンズという、桜がほとんど見たことのない姿でそこにいた
「外にまで泣き声が聞こえていますよ!は~い!ヨンジュン~ババですよぉ~」
挨拶もそこそこに、フネはためらいなく桜の腕からヨンジュンをさっと抱き上げ、スタスタとリビングへ入っていった、取り残された桜は、しばらくドアのそばに立ち尽くしていた
不思議なことに、ヨンジュンの泣き声が、少しずつ小さくなっていく、母はソファに腰を下ろし、ヨンジュンを縦抱きにして背中をポンポン叩いて揺らしていた、ヨンジュンはヒックヒックと小さくしゃっくりをしながら自分の拳をしきりに、あむあむ食べていた
フネの赤ん坊をあやす手つきは長い年月が磨き上げた確かな温かさを持っていた、桜は無言のままその隣にそっと座って言った
「突然どうしたの?旅館は?」
「旅館は誰かがやっているだろうし、ジンさんに頼まれたんですよ」
「ジンさんに?」
にっこりフネは微笑んで言った
「あなたを助けてやってほしいってね」
. .。 .:・.。.
. .。
「ジンさんは何時ごろに帰ってくるの?」
「・・・八時頃だと思うけど・・・」
「まずはお夕飯ね、この子のおんぶ紐は?」
その一声で、静かだったリビングの空気がぴんと張った
「でも・・・この子拘束されるのが嫌みたいで抱っこ紐もベビーカーもそれはそれは激しく抵抗する―」
「お母さんに試させて、おんぶ紐はどこ?」
「あ・・・あそこ・・・」
フネは有無を言わさぬ口調で桜に言った、旅館で何十年も仲居や板前を束ねてきた女将の声だ、桜は反射的にクローゼットの方向を指差していた
フネはいとも簡単にヨンジュンをてきぱきと背中に収め、おんぶ紐を慣れた手つきでぱちんと留めた、ヨンジュンはぐずりながらも、祖母の背中の温かさに少しずつ落ち着いていった
フネが冷蔵庫を開けた瞬間、短い沈黙が落ちた
「その・・・献立を考える時間がなくて食材を買ってないの・・・」
「これだけあれば十分ですよ、主婦は冷蔵庫にあるもので作るのが腕の見せ所です」
そう言いながらフネはもう包丁を探していた、ヨンジュンを背負ったまま、引き出しを次々と開けテキパキと夕食を作っていく
「ここはわたくしに任せて、あなたは洗濯物を畳みなさい」
「う・・・うん」
洗濯物を畳みながら、桜はキッチンにいるフネの動向を慎重に観察する、不思議なことにフネはヨンジュンがぐずり出したら、くるっと一回転する、そしてまた暫くしてヨンジュンが泣こうとすると、また半回転する、右へ左へ忙しく動くフネの背中に背負われているヨンジュンは、次々と変わる視界が面白いらしく、キラキラした目であたりをキョロキョロ見回している
―泣いていない・・・―
桜は目を丸くして二人を観察した、次にフネはヨンジュンを背負ったままスタスタと風呂場へ移動した
ジャーッ!
「浴槽は湯舟を張らないときでも洗わないとだめですよ、空中に埃が舞って湿気でこびりつくの、シャワーでもいいから毎日流しなさい」
「う・・・うん・・・」
フネはヨンジュンを背負ったまま風呂を洗い始めた、その後ろ姿を見ながら桜はふと気づいた・・・母の背中は自分が子どもの頃に見上げていたよりずっと小さかった・・・でもその動きにはちっとも迷いがない、洗い終わったフネは立ち上がり、腰をとんと叩いた
「はい、完了、次は洗濯物ね」
リビングに戻ると、ソファの上にあった洗濯物の山がフネの目に留まった
フネはヨンジュンを背負ったまま洗濯物を次々と畳み始めた、桜も慌てて一緒に畳んだ、すると座って視界が低くなったのが気に入らないのかヨンジュンがグズグズ泣き出した、その時フネがキッチンに行き、しゃもじをヨンジュンに握らせた、するとヨンジュンは泣き止んでしゃもじをあむあむ食べだし、よだれでべとべとにした
後にヨンジュンはジンから買い与えられたカラフルなどんな高級ベビーおもちゃより、フネが与えた100均の白いしゃもじが大のお気に入りのおもちゃになった
―あのツブツブがいいのかしら?赤ちゃんってホントに不思議―
「泣く子には気を紛らわせるのが一番ですよ、口に入れるものは、飲み込んでしまわない大きなものを与えてね」
そう言いながらフネはテキパキと家事をこなした、またヨンジュンが泣き出した、フネがスーパーのカサカサの買い物袋を右手に握らせると、今はそれをご機嫌でブンブン振り回している
「マ・・・ママ・・・どこでそんな技を覚えたの?」
すっかり感心して桜はフネに聞いた、フネは片眉を上げて桜を見て言った
「あなたからに決まっているじゃありませんか、あなたはこの子より酷かった」
すっかり可笑しくなって桜は大爆笑した
コメント
4件
フネさん頼りになる母✨✨ こうやって桜ちゃんを大切に育ててきたんだね。母の愛情が伝わってきて心に沁みる🥹 フネさんから子育ての技を伝授してもらおう!
ジンさんがフネさんに応援📣依頼したのねー💕良かったね〜 誰も自分が赤子の時の記憶ないもの、フネさんの愛を感じる😻ヨンジュンもババ好きよね❤️
初めての子育ては何が何だかわからなくて親も泣けるのよ。 私も一緒に泣いてたのを思い出しました。 経験者に頼るのも必要ですよね😊
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