テラーノベル
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それからもフネは口も体も止まらなかった、文句を言いながら夕飯を作り、文句を言いながらトイレ掃除をし、シャンプーを詰め替え、トイレットペーパーを棚に補充し、ジンの靴まで磨き上げた
母の手は一度も止まらず、家の中はどんどん快適になっていった、今なら桜もわかる、愛情というものは、きっとこういう形をしているのだろうと思った、言葉よりも先に体が動いてしまのだ
今ならわかる、ずっと桜はこの母に放ったらかしにされて育てられていたと思っていたが、もしかしたら自分が覚えていないだけで、とても愛情をかけられていたのではないかと
―ありがとうママ―
フネのおかげですっかり家事を終えた二人は、お茶を飲みながらヨンジュンをフカフカの絨毯に転がしてくつろいだ、その時フネがポツリと桜に言った
「それで?仕事の復帰は?いつからするの?」
「仕事?復帰?」
桜の問いにフネが紅茶を飲みながら言う
「あなたはキャリアウーマンでアプリ開発が好きなことだし、もちろん復帰を考えているんでしょう?お母さんはあなたのすることに口出しする権利はないけれど、ヨンジュンは感の強い子みたいだし・・・ベビーシッターや保育園になじめるか―」
「それなんだけど・・・」
桜はふとヨンジュンを見つめて言った
「私は以前ほどアプリ開発をしたり、キャリアウーマンとしてバリバリ仕事をすることに、この子と過ごす時間ほど興味を持てなくなってしまったの」
自分でも気づいていなかった言葉がするりと出てきた、ずっと心の底に温めていたものが、母の存在を感じた途端に浮かび上がってきたようだった
桜はヨンジュンの小さな右手に、そっと人差し指をかざした、するとヨンジュンは視線を桜に向け、ご機嫌な笑顔でその指をギュッと握った、その小さな力にいつも桜の胸は満たされた、この子と離れて仕事をしないといけないと思うと辛くて胸が張り裂けそうになる
しばらくの沈黙の後、フネが静かに口を開いた
「実はお母さんもなの」
桜は顔を上げた、母がこんなふうに自分の内側を語り始めた事がこれまでにあっただろうか
「月日が過ぎていくうちに、わたくしは時間の経過を自分の年より、あなたの成長で測るようになったわ、寝返りを打った日、おすわりをした日、米粉と味噌で溶いた離乳食を初めて食べた日、初めてのヘアカット、最初の乳歯・・・あなたがべたべたの手で目を輝かせて抱っこと手を差し伸べる相手は、いつもわたくしだった・・・その度私とあなたは強い絆で結ばれていると思っていた」
フネの声が、わずかに揺れた
「ママ・・・」
「でもあなたが七歳の時に、姑が急死した」
桜はハッとした、祖母の記憶はほとんどない、葬儀の白い菊の花と、大人たちの黒い服と、誰かの袖を握っていた自分の小さな手—それだけだった、後に父や旅館の古い従業員から断片的に聞いた話が、記憶の代わりを務めていた
「姑はとても自分に厳しい人だった、その厳しさ故に、わたくしにも山田家の嫁への要求は高かった・・・わたくしは姑の葬式の翌日から、『山田旅館の女将』として玄関に立ち、予約客を迎え入れなくてはならなくなった」
フネはそう言いながら、洗濯物のかごからヨンジュンの小さなオムツカバーを取り出し、丁寧に畳み始めた、その手が、少し震えているように見えた
「でもわたくしは本当は・・・着物よりジーンズが好きなのよ」
「知らなかったわ・・・」
「そりゃぁ、誰にも言えませんでしたからね」
その一言に、桜は不意に泣きたくなった、母は自分を理解していないと思っていたけど、桜こそどれほど母の事を理解していたのだろう
「長年女将としてあの旅館を切り盛りしてきたけど、なんだかねぇ~・・・わたくしもヨンジュン以外のことに、何も興味を持てなくなったの、あなたがこの子を産んだ日・・・待合室でこの子を抱き上げた時・・・私は子育てをやりなおしたいと思ったの・・・この子の成長を一番近くで見ていたいわ、もう旅館の女将はコリゴリ・・・」
フネは洗濯物の中から、ヨンジュンの機関車の絵のついた小さな帽子を広げた
「まぁ・・・なんて小さな可愛い帽子、男の子って楽しいわねぇ~」
その愛らしい形に、思わず微笑みが浮かぶ、母の頬にも柔らかな笑みが広がっていた
「こ・・・これからしょっちゅうヨンジュンを連れて帰るね、私しばらくは専業主婦でいようと思うから、パパもママももっとヨンジュンと触れ合って欲しいし・・・」
桜がそう呟くとフネは帽子から目を上げ、娘の顔をまっすぐに見て微笑んだ
「それについてはとっても良い提案をジンさんからもらったの」
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ヨンジュンはいつの間にか眠りに落ちていた、夕暮れの光の中で、母と娘の冷え切っていた関係が今変わりつつあった
コメント
2件
突然始まった女将生活、想像を絶するものだったことでしょう😭 辛かったフネさんも寂しかった桜ちゃんも労われるべきですね😌 👖が好きだったあのころのフネちゃんに戻れて、旅館も桜ちゃんもヨンジュンもジンさんもみんなハッピーになれる方法とは🤔
読んでて涙が止まりませんでした🥺 フネさんは旅館の為に頑張るしか無かったのね…🥲 ヨンジュンが産まれて、母の本音を知る事ができて、親子の絆が深まったね😊ヨンジュンが運んできてくれた幸せだね✨✨ 嬉しい提案??なんだろー楽しみ🤗