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「その、商談の後に狩野さんに、尊さんとは学生時代からの仲だって聞いて…少し雑談しただけですよ」
これ以上、心に重しを乗せ続けることは出来なかった。
まるで胸の奥に鉛の塊を抱えているかのように、その場に立ち尽くすことすら辛かった。
真実を隠し続けることの重圧に耐えきれず
半ば諦めにも似た気持ちで、俺は絞り出すように言葉を紡いだ。
しかし、その言葉はあまりにも軽薄で、自分の心の中の嵐とはかけ離れたものだった。
「それだけか?」
尊さんの声は、先ほどまでの穏やかさとは一変し、深い洞察力を秘めた響きを持っていた。
その声に射抜かれるように感じ、俺は思わず身を竦める。
「は、はい。本当になにもないので…」
尊さんの真っ直ぐな視線から逃れるように、俺は床に向かってぽつりと呟いた。
それはまるで、自らの罪を告白する懺悔の言葉のようでありながら
同時に、これ以上踏み込まれたくないという切実な願いも込められていた。
床の木目がぼやけて見えるほど、俺の視界は揺らいでいた。
しかし、そんな俺の微かな動揺を、彼が見逃すはずがなかった。
「…それ、俺の目見て言えるか」
言いながら、尊さんの指先が俺の顎をクイッと持ち上げた。
不意打ちの行動に、俺の心臓は大きく跳ね上がる。
強制的に目線を合わせられた瞬間
彼の瞳に吸い込まれるような感覚に陥った。
その眼差しはどこまでも真っ直ぐで
一点の曇りもなく、誠実さが溢れ出ていた。
まるで、俺の心の奥底まで見透かされているかのような錯覚に陥る。
「…っ、そ、それは…っ」
言葉が喉の奥で詰まり、何も言い返すことができない。
彼の視線は、俺の全ての嘘を見破り
心の壁を溶かしていくようだった。
(っ、ずるいよ……尊さん)
こういう時の尊さんは、本当にずるくて意地悪だ。
こんなにも真っ直ぐに
信頼に満ちた瞳で見つめられて、本音を隠せるはずがない。
彼の誠実さが、逆に俺を追い詰める。
でも同時に、脳裏には狩野さんの言葉と手の感触が鮮明に蘇る。
『狩野さんに頭撫でられて尊さんのこと思い出した』
『からかわれてるだけだろうけど、耳元で「キミがもし烏羽と別れたら……俺のところにおいでよ」と言われた』
そんな、尊さんを傷つけるかもしれない言葉を
簡単に口に出せるはずがない。
なのに
もういっそのこと、全てを話してこの重苦しさから解放されたいという衝動にかられた。
しかし、また彼の負担を増やしてしまうのではないかという不安がその衝動を上回る。
俺は結局、何も言えずに無言で俯いてしまった。
それでも彼はそれ以上問い詰めてくることはなく
ただ静かに俺を見つめ続けているだけだった。
その沈黙が、余計に俺の心を締め付け
罪悪感を募らせる。
まるで、言葉にならない非難を浴びせられているようだった。
やがて、尊さんは俺の顎から手を離すと深い溜息をついた。
その溜息は、諦めか、それとも失望か。
俺には判別できなかった。
「わかった」
その短い言葉に、俺は後ろめたさとわずかな安堵を覚えた。
しかし、その安堵はすぐに別の不安に変わる。
「じゃ、仕事に戻れ」
尊さんはそう言い放つと、俺に背中を向けて給湯室を出ていこうとする。
その背中は、まるで俺との間に見えない壁を作ったかのようだった。
俺は尊さんに呆れられたんじゃないか
嫌われたんじゃないかと焦り
反射的に立ち上がって尊さんの背中に向けて手を伸ばした。
「ま、待って!尊さ」
「ん」と言いかけたその拍子に
テーブルに置いていたコーヒーカップに手が当たり、ガタンという音と共にそれが傾いた。
熱い液体が、白いシャツに向かって勢いよくこぼれ落ちる。
「あっ、熱っ……!!」
熱さに思わず声を上げ、俺は慌ててシャツをハンカチで拭おうとした。
しかし、それよりも早く、尊さんの手が俺の手首を掴んで引き寄せた。
そして、バッと俺のシャツを上に捲りあげたのだ。
「っ?!」
予想外の行動に驚いて固まっていると、尊さんの真剣な声が響いた。
「おい、早く脱げ。火傷したらどうすんだ」
その言葉に促され、俺は躊躇いながらも熱いシャツを脱いだ。
尊さんはすぐに給湯室のシンクに向かい、蛇口を捻って勢いよく水を出し始めた。
ジャー、という水の音が給湯室の狭い空間に響き渡り
その一瞬だけ、世界の全てが止まったかのような感覚に陥る。
そして、近くにあった清潔なタオルを水で濡らしてぎゅっと絞ると
尊さんは俺の方に戻って来た。
「冷たいけど我慢しろよ」
そう言われて、冷たい水が染み込んだタオルが、熱くなった肌に当てられた。
ヒヤリとした感触に、一瞬鳥肌が立ったが
徐々にその冷たさが火照った体を落ち着かせてくれるようだった。
俺は何も言えずに、ただされるがままになっている。
彼の手が、優しく俺の肩に置かれているのを感じた。
その手は、力強いようでいて、どこか優しい温もりがあった。
俺は尊さんの質問になにひとつ
ちゃんと答えられていないのに
変わらず、突き放さないで優しくしてくれる
それが上司としてなのか
恋人としての優しさなのか分からないけど
胸が締め付けられるような、甘く切ない気持ちになった。
「ごめんなさい……」
申し訳なさでいっぱいの気持ちが溢れ出し、自然と謝罪の言葉が口をついて出た。
すると、尊さんの低い声が、俺の名前を呼んだ。
「雪白」
そして次の瞬間、俺は強く抱き締められていた。
尊さんの腕が俺の背中に回され、その温かい胸に顔が埋まる。
彼の体温が、俺の不安と罪悪感を少しずつ溶かしていくようだった。
「俺は大丈夫だから気にすんな」
その声は、俺の耳元で優しく響き、安心感を与えてくれた。
「……っ…」
何も言えず、ただ尊さんの腕の中で、彼の温かさに包まれる。
「ここは俺が片付けておくから。お前、シャツの予備持ってるか?」
「な、ないです」
「じゃあ俺の貸してやるから待っとけ」
尊さんはそういうと、俺を解放して給湯室を出ていった。
その広い背中が遠ざかるのを、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。
彼の優しさに、胸がいっぱいになる。
しばらくして、尊さんが新しいシャツを持って戻ってきた。
「ほらよ」
俺はそれを受け取り、急いでシャツに袖を通した。
尊さんのシャツは俺には少し大きいが、清潔で肌触りが良く、申し分なかった。
「あの、尊さん…いつも迷惑かけてしまって、すみません」
尊さんの背中に向かって、もう一度謝罪の言葉を口にした。
彼はコーヒーを拭き取っていた手を止め、ゆっくりと振り向いた。
その瞬間、再び俺の手首が彼の指に掴まれる。
「っ?!た、尊さん…?」
突然のことにびっくりして声を上げると、尊さんの顔がゆっくりと近づいてきた。
「何があったのか知らないが……俺には隠し事するな」
その低く、しかし有無を言わせぬ声色には強い意志が込められていた。
彼の吐息が耳にかかり、全身に鳥肌が立つ。
彼の真剣な眼差しが、俺を射抜くように見つめてくる。
その瞳には、心配と優しさが溢れていて
同時に、どんな嘘も許さないという強い雰囲気を醸し出していた。
(っ……)
俺がまた何も言えずにいると、尊さんの顔がゆっくりと近づいてきて
唇が触れる寸前で動きを止めた。
その距離で、囁くように俺の名前を呼ぶ。
「なあ、雪白」
「っ……」
彼の吐息がかかるほどの距離で名前を呼ばれたことによって、俺の緊張感は最高潮に達した。
貸してもらったばかりの
まだ少しだけ尊さんの温もりが残るシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
もはや、この状況で本音を隠し通すことは不可能だった。
重い口を開く。
「…怒らないで、聞いて貰えますか」
尊さんは俺の目をじっと見つめて、小さく頷いた。
その表情は真剣そのもので、俺の言葉を全て受け止める準備ができているようだった。
「なんでもいい、言ってみろ」
短く、しかし力強い返事が返ってきた。
俺は意を決して、心の奥底に押し込めていた言葉を吐き出した。
「俺……っ……その、狩野さんに…頭撫でられて。尊さんと似ててドキッとして……」
言葉の途中で声が震え、目が潤んでくる。
「……」
尊さんは何も言わず、ただ俺の言葉をじっと聞いている。
その沈黙が、俺の不安をさらに煽った。
「あと…からかわれてるだけだとは思うんですけど…キミがもし烏羽と別れたら……俺のところにおいでよ、とか言われて」
俺は尊さんの目を見ながら、恐る恐る告げた。
彼の表情は変わらず、眉間に微かに皺が寄っているだけだ。
だが
(尊さん、何も言ってくれない…)
やっぱり、怒った、かな
もしかすると、呆れてるかもしれない。
それとも――嫌われてしまったのだろうか。
様々な不安が頭の中を駆け巡り、俺はまた俯いてしまう。
目の前が真っ暗になるような感覚に襲われ、呼吸が浅くなる。
恐る恐る再び顔を上げると、尊さんはやはり眉間に皺を寄せて
何かを深く考え込んでいるようだった。
俺はその表情を見て、ますます不安になってしまう。
(やっぱり言うべきじゃなかったかな……)
後悔の念に苛まれていると
尊さんの長い指が、ゆっくりと俺の頬に伸びてきた。
優しく撫でるように触れられたその感触に、俺は突然のことにびっくりして固まる。
彼はゆっくりと顔を近づけてきて
「……お前は、なんて答えたんだ?」
低く、艶のある声で問いかけてくる。
その声音には、明らかに怒りが含まれており
俺は思わず肩を竦めた。
まるで、獲物を追い詰める獣のような
しかしどこか甘い響きがあった。
「び、びっくりして何も言えなかったんですけど…おっ、俺…尊さんと別れる気ないですから…!」
言い淀みつつも、必死に伝えようと試みる。
俺の言葉に、尊さんはフッと笑みを浮かべた。
その笑みは、安堵と、そしてどこか満足げな響きを帯びていた。
「……分かってるよ」
その言葉に、俺は胸を撫で下ろす。