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#めめこじ
雫
300
水槽に舞うくらげのように肌に纏わりつく空気。じっとりとしたそれは湿度を持って俺の一部になっていく。酸素を求めて、俺を抱き締める男の胸を押し返すと男は呆気なく唇を離し眉尻を下げて笑った。俺を見上げるその瞳に、煌めいた恋心なんて灯されちゃいない。
「ひかる」
胸は高まるどころか人知れず水底に沈んでいる魚のように冷たくなった。心はその場に立ち尽くして、足元が埋まっていくのをじっと見つめている。
それでも俺は応えるように男をベットへと押し倒すと、二人の体はシーツの海へと沈んでいった。あつい。触れる肌も吐き出す息も、互いを包む空気さえも。絡み合う熱気は色っぽく艶やかで、それでいて乾き果てていた。
一体これは何なんだ。愛でも恋でもない。歪で不確かで不安定なこの関係は。そっと後ろを振り向くと、脳裏には健やかに笑う男がいた。俺がもっと純粋で青かったら、きっと今頃泣いていただろう。
不可逆的に時は進んでいく。止まっても、戻ってもくれない。無かったことになんて、誰もしてくれない。
◇
深「照、お前男好きなの?」
そうド直球に言われたのは高一の冬だった。確か、同じ現場からの帰り道。凍てついたように足は止まって、悴んだ指先がやけに痛んだのを今でも鮮明に覚えている。身体の中で慌てふためくものを無理やり飲み込んで吐き出した言葉は白く無情に蒸散していく。唇がわなわなと震える。なんで、どうして、いつだ。言葉に上手く纏まらない感情を思考は猛スピードで拾い上げては捨てていく。この場から逃げ出したい、バレる前に戻りたい、最初からやり直したい。この男を失ってしまう、その前に。
岩「すきじゃない」
拙い嘘を呟いたその声は、明らかに震えていた。乾いたバイクの排気音が静寂をびりびりに切り裂いていく。再び訪れた静寂に残るのは、後悔と絶望と虚しさだった。
岩「……好きじゃない」
アスファルトに向かって、俺はその言葉をもう一度繰り返した。確かめるように、嘘を塗り重ねるように。そうすることで男を騙したかったわけではなく、自分自身にそう信じ込ませたかったのだ。男が好きだなんて勘違いだ。俺は普通の、皆と同じ人間なのだと。
男に合わせる顔がなくて俯き、現実から目をそらすためにきゅっと瞑った目蓋が次第に熱くなっていく。溢れ出してくる全てを抑え込むように強く拳を握りしめた。
親友だった。一つ先輩のその男は、おおらかで皆に愛される性格で努力家で誠実で。正直に言うと憧れていた。何があっても手放したくない程大好きだった。それは純愛でも色恋でもなく、神を崇拝するようなものだったのだ。
それなのに、こんなにも呆気なく終わってしまうというのか。この男は酷く優しい。だからきっと、いや決して、差別をしたり蔑んだりはしないだろう。少なくとも、俺が気付くような範囲内では絶対に。だけれど、それでも溝というのは深まっていく。互いが何もせずとも、自然現象のように身勝手に。
ゲイなら、俺のこともそういう意味で好きだったのか。そう思われてしまうのは、揺るがない天命だと俺は信じている。相手がどれほど寛容で無差別的であったとしてもだ。
アスファルトを擦るタイヤの音が耳元で響く。その音に誘われるようにちらりと男を盗み見ると、首に巻いたマフラーの端を指先で弄んでいるところだった。そして、俺の視線に気が付いたようにホッと息を吐き出して、口を開いた。
深「そ。寒いし帰ろーぜ」
健やかで穏やかな慈愛に満ちた笑顔。右にも左にも逸れずに真っ直ぐ向けられたその表情に俺の全ては一瞬にして溶かされていった。ゲームセンターで遊んでいた昨日と、微塵も変わらない太陽のような笑み。その光は痛いほどに神々しく、純潔であった。
その日を境に変わったことなんて俺の中のことでしかなくて、男は相変わらず俺の背を叩き、隣に立ち、肩を組んだ。俺にとって男はとてつもなく奇妙な存在に見えた。なぜそうも普通でいられるのか、当事者でありながらも理解が出来ないからだ。
けれど、そんな男に救われたのは紛れもない事実だった。気付いていたのはどうやらこの男だけなようで、俺は言いふらされるかもしれないというよくある不安も抱くことのないまま、男の作った居心地の良い世界で踊り続けた。
パキッと一筋のヒビが入った陶器は、いずれ壊れゆく。俺達の関係が崩れ始めたのは、それから数年後の二十後半の頃だった。
◇
岩「お疲れ様でした」
今日もいつものように6人でYouTubeの撮影を終えてそれぞれが帰り支度をするなり、談笑するなりしている中、俺は一人で素早く事務所をあとにした。背中と足取りにほんの少しの後ろめたさを感じるのもいつものことで、それでも俺はこのルーティン化してしまった行為をやめられなくなっていた。後戻りできない、不可逆的な中毒のように。
過去にトラブルがあり、少しトラウマのある駅のホームでじっと電車の到着を待つ。スマホでなんとなく天気を確認すると、どうやら数時間後から雨予報になっていた。朝は曇り予報だったのに。まるで己の行いを苛まれているような気分がして俺はそっとスマホをポケットにしまい込んだ。
間もなくして電車がホームへと滑り込んでくる。電車が到着する際の独特な風に髪を揺らされながら、窓ガラスに反射する自分をぼんやりと見つめた。……本当に、俺は何をやっているんだろう。止まった電車から人が降りてくる。ふと、見知った顔の男が背後に映っているような気がして焦って振り返ったものの、そこには階段を上がっていく人々しかいなかった。きっと、怖いんだ。メンバーに、そして、一番大好きなあいつに知られてしまうのが。
自宅の最寄り駅を過ぎていく車窓の外を眺める。やがて新宿三丁目駅までたどり着いた俺は、改札を出て薄汚くて不快なほど眩しい世界へと足を踏み入れた。すれ違う人々は様々で、距離の近すぎる若い女性とおじさん。ワイワイと騒ぎながら戯れている男の軍団。そして、付かず離れず歩いていく同類と見られる二人の男。別に自分のマイノリティを恥じているわけではないけれど、わざわざ公言するつもりもない。メンバーたちも悪いやつではないのはわかっているけど、今の関係を変えてしまいたくなかった。
雑居ビルが立ち並ぶ路地裏へと向かうと、人通りは徐々に少なくなっていった。出会うのは男ばかり。ジロリと目線を向けられて、思わず被っているキャップを深く沈めた。バレたら社会的に死ぬ。俺だけがそうなるならまだしも、俺のそばにいる人全員に迷惑がかかってしまう。メンバーを、友人を、家族を傷つけたくなんてない。それでいて、デビューもしていないジュニアの分際では週刊誌などに目をつけられることもないだろうと、こうして日々発展場へと向かってしまうのは変な気の緩みなんだろう。ぐちゃぐちゃになっている頭の中がさらに絡まっていく。
早く抱かれたい。快楽が欲しい。気持ちよくなりたい。全部忘れたい。知らない男たちでいいから求められたい。必要とされたい。……いらないって、思われたくない。
歪みだった。自分の性のせいでもあったものの、どう頑張ってもデビューすることのできない現状への不満や焦り、苦しみが渦巻いた結果の、いわば承認欲求のようなものでもあった。身体だけでも求められ、誰かに必要とされていると錯覚を起こすことで底のない安心感を覚えてしまうのだ。そのせいで、気がついた頃にはこの沼から抜け出せなくなっていた。大嫌いな自分が、誰かに汚される度に愛おしく思えてしまうから。
地下への階段を降りる前にスマホの電源を切った。”ここ”はそういう場所なのだ。普段生きている世界とは別の世界。徐々に薄暗くなっていく階段に足をかけようとした途端、突然俺の身体は背後にいた誰かに抱き寄せられてバランスを崩した。
岩「っ……!?!」
誰だ。なんで。人違いされた? やばいやつに捕まったか? やばい。どうしよう。
その瞬間、頭の中が冷えて真っ白になっていく。何が起きようと動じなさそう、なんて言われることもあるがそんなの見かけだけで中身はビビリな小心者だ。バクバクと怯える心臓と、かすかに震える身体。あぁ、これが天罰か。
震える声で「ゃめてくださ……っ」と精一杯言うと同時に、背後にいる誰かにぐっと抱きしめられて、どこか懐かしいような安心できる香りが立ち上った。震えていたはずの身体が固まる。待って、やだ、なんで、どうして。
そっと目線を左へとずらすと、そこには俺の肩に顎を乗せた暗い瞳の深澤がいた。
深「ねぇ、こんなところでなにしてんのさ」
岩「ふ、っか……」
深「ほれ、行くよ」
腕を痛いくらいの力で掴まれて、半ば引きずられるようにその場からどんどん離れていく。勘違いじゃなかったのだ。あの事務所の最寄り駅から深澤は俺の後を着いてきていたんだ。あの時ちゃんと気がついていれば……そう思ったものの、俺を尾行していたということはその時点でもう勘付かれていたのだろうと思い、どちらにせよ手遅れだったことを察した。
俯いてアスファルトを睨んでいる視界が徐々にぼやけていく。馬鹿。俺が今泣いて何になるんだよ。泣きたいのは、ふっかの方だろ。信用してたリーダーが、分かってて普通に接してあげてた親友が、馬鹿みたいにこんな場所で遊んでて。信用も友情も、きっと全部今の一瞬で失った。それでも俺の手首を掴む深澤の手のひらはあたたかくて、それだけが今の俺にとっての救いだった。
突然、深澤が足を止める。信号待ちだろうか? いやでも、足元には白線も点字ブロックも見えない。俺は空いている手の甲で浮かんでいた涙を雑に拭ってから顔を上げると、そこは……
岩「…………は、?」
思わず深澤の顔を覗き込むように見つめた。だって。なんで??
深澤は何も言わないまま、俺のキャップのつばをグイッと下げて入口へと俺を連れて入り込んだ。
コメント
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あー、これ刺さるやつ……。岩の自責と自己嫌悪のループが生々しくて、読んでて胸がギュッてなったわ。特に「好きじゃない」って自分に言い聞かせるシーン、その震えた声が聞こえてきそうで苦しかった。最後、深澤にバレて連れてかれる展開……もう読む手が止まらなかった。ふっかのあの暗い瞳、何考えてるんだろ。続きがマジで気になる🔥