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「さすがに病室前に突っ立ってたりこっそり中を窺ってたら、怪しいだろ」
確かにそうだ。
それに、私が階段から落ちた理由を話したのは、柚葉が来てしばらく経ってからだ。
「階段を踏み外すほど酔ってたんだろ」
おしい。
「そんなにつらかったか? 離婚」
ある意味、正解。
「慰謝料と養育費がっぽりふんだくって、子供引き取ればよかったのに」
それが出来れば、階段から落ちなかった。
「それが出来なかったって、何があった?」
「……」
子供に捨てられたの、なんて言えない。
「千恵」
「……私の話は、匡の後じゃなかった?」
「え?」
ぼんやりと、焦点の合わない視線を上げる。
匡の顔が、何重ものすりガラス越しのようにぼやけて見える。
『俺の話が終わったら、千恵の話も聞かせてくれ』
匡はそう言った。
それに、私はまだ、何でもないようなことのように話せるほど離婚を過去に出来ていない。
「どうして離婚したの?」
どうしても知りたいわけじゃない。
ただ、話を逸らしたくて口をついた問い。
はぐらかされたらそれまでのつもりだった。
「子供ができなかった」
「え?」
「政略結婚の条件が子供だったから、さ」
「条件?」
「そ。相手は一人娘で、跡取りが欲しかったから」
でも、それなら……。
「婿を取れば良かったと思うだろ? けど、血筋……だろうな。娘が産んだ子供に継がせるのは良くて、血の繋がりのない婿はダメなんて、今時聞かないよな」
やれやれ、と肩を上げて見せる。
「俺は資金、相手は息子。そういう政略結婚だったのに、子供ができなかった。で、離婚」
顎を上げ、匡を逆さに見る。
自分の言葉を軽く流して欲しいのか、口角を軽く上げて茶化すように笑っているのに、私には泣きそうに見えた。
それは、私が『子供』というワードに敏感になっているだけか。
「何年?」
「え?」
「何年結婚してたの?」
「七年。最後の一年は離婚するしないの話し合いばっかだったけど」
「七年も一緒にいたら、情も湧くでしょう?」
匡が膝の間で手に持っているコーヒーに視線を落とした。
「情……か」
過去に想いを馳せている彼が、それを振り払うかのようにふんっと鼻で笑った。
「結婚してから子作りは義務で、最優先事項だったからな。向こうの親に会えば子供のことを聞かれ、嫁は精のつく料理を取り寄せては、前日に食卓に出すんだ。マジで、種馬になった気分だったな」
「考えようによっちゃ、最高じゃない。長らくご無沙汰な世の男たちに妬まれるよ?」
「お前……」
呆れたように呟いた後、匡が目を細めた。
「相手がお前なら、喜んで腰振ったけどな?」
「まんま、種馬じゃない」
首が疲れて、私はカップをテーブルに置き、匡の隣に腰かけた。
三人掛けのソファの端っこで、それまでと同じように膝を抱える。
「奥さん、いくつ?」
「……知ってどうするよ」と言った匡は、わかりやすく不機嫌だ。
「別に?」
「つーか知りたいかよ? 昔の男の、自分の次の女のことなんて」
「面白そうだけど? 次もその次も聞いてあげるから言ってごらん?」
「……そんなにいねーよ」
匡はお調子者だけれど、浮気な男ではない。
来るもの拒まずというほど節操なしでもない。
どちらかといえば、人との距離は慎重に量るタイプだ。
私との距離は最短で詰めてきた気がするけど。
とにかく、そんな彼だから、恋人との不本意な別れと離婚を経験した後も多くの女性と付き合うことはないかなとは思う。
匡が、どこまで本気かはわからないけれど、私に対して何かしらの執着があるのはわかる。
失った幸せな過去を懐かしんでいるのか、知った顔が偶然にも自分と同じバツイチという境遇だったことで仲間意識でも芽生えたか。
同級生で、元恋人で、今はセフレ?
酔った弾みの一回……一夜なら、セフレとは言わないか。
「私の、匡の後の男も言おうか?」
「聞きたくねーよ」
そう言った彼は、心底嫌そうに唇をひねった。
ほんの冗談のつもりだったのだが。いや、聞かれれば答えたろうから、冗談とも違うのだろうけれど。
とにかく、いじわるで言ったつもりではなかったけれど、匡の不貞腐れた表情を見たら、なんだかすごく自分が悪い人間のように思えた。
「元嫁……|結亜《ゆあ》は22で結婚して29で離婚した」
「かわいい名前ね」
「年を聞いたんじゃないのかよ」
「聞かれもしないのに名前を言ったのはそっちでしょ?」
「お前が自分の名前を好きじゃないの、忘れてたよ」と言いながら、匡がそうすることに意味はない、短い髪をかき上げるような仕草をした。
そう。私は自分の名前が好きではない。
小学生の頃だったか、友達に『私のおばあちゃんとおんなじ名前だぁ』と言われたから。
たった、それだけ。
よく覚えてたな、と思うレベルで、私も忘れていた。
「会ったこともない、元カレの元嫁の名前なんかに妬かないわよ?」
「……何の話してたんだっけ」
私はふふっと笑った。
昔も、二人で他愛のない話をしていると、いつの間にか話が脱線して、結局何の話をしていて、どうしてこんな話に逸れたのかわからず、笑いあったりしたものだ。