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原本を、渡すか。
水曜の朝、五階の棚の前で、私はメールの画面を見たまま、青いペンの箱を持っていた。
原本は、書斎の引き出しにある。方眼紙に鉛筆で書いた一枚。渡せば、プロジェクトの資料として保管される。保管されたものが、いつ、どこへ行くかは、私には決められない。
渡さなければ、常務のCCに「提出しない」が残る。
手帳を開いた。十月六日のページ。テープと、書斎の鍵。その隣に、今日の日付を書いて、原本、コピー、確認印、と三語だけ書いた。決めたことは、書く。書けば、迷わない。
二階に戻って、課長の前に立った。
「課長。原本の件です」
「見た。常務まで入ってるね」
「コピーを出します。原本は、私が持ちます」
課長は、少し考えた。
「それで、通るかな」
「コピーに、日付と、課長の確認印をお願いします。原本と同じだと、課長が確認した、という印を」
「……私が」
「はい。原本を見て、確認してください」
課長は、お茶を置いた。
「見せてもらっても、いい?」
「はい」
その夜、私は書斎から原本を持ち出した。翌朝、課長の机の前に置いて、夜には書斎の引き出しに戻すと決めて。
課長は、老眼鏡をかけて、方眼紙の一枚を長く読んだ。表の数字、裏の計算。鉛筆の字。読み終えて、眼鏡を外して、しばらく何も言わなかった。
「これ、全部、水瀬さんが」
「はい。四月に」
「……会議室Fの稼働率、三年ぶん。各階の消費量、前年比。一括調達の見積もりまで」
「見積もりは、業者に聞きました。総務の仕事の範囲で」
課長は、印を取った。コピーの隅に日付を書いて、押した。
「原本と相違なし。大久保」
それから、言った。
「十月に、佐伯くんが発表したとき、私も会議室にいたよね」
「はい」
「あのとき、これを思い出せばよかった。机の上で見てたのに」
課長は、もう一度、謝らなかった。前に一度謝っている。代わりに、コピーを封筒に入れて、自分で五階に持っていった。
金曜の夜、十時。
スマホが鳴った。父からだった。
「ひより」
声で、分かった。督促だ。月の返済が、今月は三日遅れている。口座の住所変更で、引き落としが一度止まった。
「大丈夫。来週には振り込むから」
「分かってる。分かってるんだが、母さんが」
後ろで、母の声がした。泣いていた。督促の電話が家に来るのは、これで何度目か分からない。でも、母はいつも泣く。
「返せるから。大丈夫」
「……お前、何か無理をしてないか」
「してない。会社の人のところに、住んでるだけ」
「会社の人」
「大丈夫。切るね」
切った。
台所にいられなくて、バルコニーに出た。十一月の夜は、思っていたより寒かった。手すりに手を置いて、下の通りを見た。誰も歩いていない。
泣くつもりはなかった。
でも、目のところが熱くなって、そのまま止まらなくなった。声は出さなかった。母が泣いているのを聞いたからだ。私まで泣いたら、二人になる。
三年、返してきた。月に八万円。印刷所を畳んだ日に、父は私に、保証人の紙は俺が何とかすると言った。何とかならなかった。それでも父は朝六時に人の印刷所へ行き、母は督促の電話に出て、私は八万円を振り込む。三人で、九百八十万円を少しずつ減らしている。
その数字を、私は台帳には書いていない。
後ろで、窓が開いた。
「ひより」
名前で、呼ばれた。
人前ではなかった。台所と、バルコニーと、専務と、私だけだった。
「泣くなら、中で泣け。寒い」
振り向かなかった。振り向いたら、顔を見られる。
肩に、重いものがかかった。専務の上着だった。黒いスーツの上着。まだ、専務の体温が残っていた。
「……大丈夫です」
「大丈夫な人間は、十一月のバルコニーで泣かない」
「泣いていません」
「そうか」
専務は、私の隣に立った。手すりに手を置いて、私と同じ方を見た。下の通り。誰も歩いていない。
「父親か」
「……はい。返済が、三日遅れました」
「借金は、契約の報酬で消える」
「はい」
「前払いしてもいい」
顔を上げた。専務は、前を見たまま、言った。
「一千万を、今、払う。契約の報酬の前払いだ。それで督促は止まる」
「……前払いは、契約にありません」
「契約は、書き足せる」
「書き足しません」
専務が、私を見た。
「頑固だな」
「はい」
「……なぜ」
「前払いを受けたら、私は十二日に、専務の隣に立つ理由を一つ失います」
言ってから、自分でも、何を言ったのか分からなかった。専務も、しばらく何も言わなかった。
「……中に入れ。上着は着ていろ」
専務は、先に窓から入っていった。入る前に、一度だけ、私のほうを見た。何か言いかけて、言わなかった。この人の言いかけてやめる顔を、私は何度も見ている。今日のは、少し長かった。
私は、上着の中で、手を動かした。寒さで、ポケットに手を入れた。
何かが、指に触れた。
出すと、青いボールペンの替え芯の袋だった。0.5ミリ、青。会社の支給品と同じもの。
その下に、小さく折った紙があった。
開いた。
専務の字で、こう書いてあった。
『二階 水瀬 青0.5 月十二本』
コメント
1件
**第18話、読了したわ。** 原本を課長に見せる決断、本当に良かったね…。方眼紙の計算を見た課長が「会議室Fの稼働率、三年ぶん」って確認してて、あの一枚にどれだけの仕事が詰まってるのかが伝わってきた。 バルコニーで「理由を一つ失います」って言った水瀬さんの言葉、すごく刺さったわ…。自分の居場所とか意味みたいなものを、ちゃんと口にしてる感じがして。 で、ポケットの青いボールペンの替え芯。「二階 水瀬 青0.5 月十二本」 そういうところで人が見えてくるから、この作品はやめられないんだよな。原稿用紙の隅みたいな、余白の優しさが好き。