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数ヶ月後
都心の喧騒を離れ、私は父の古い工房に近い小さな平屋に、一枚の看板を掲げた。
『一円の相談所』
そこには、かつてのように億単位の金が動く気配も、政財界の重鎮たちの影もない。
ただ、近所の人々が「今日の夕飯のやりくり」や
「子供の進路」について、一円の重みを噛み締めながら話しに来る場所。
ある日
その相談所のドアを叩いたのは、驚くべき人物だった。
数ヶ月前、私が奈落の底へ突き落とした「帝国開発」大河原元社長の、まだ幼い孫娘と、その母親だった。
「……詩織さん、身勝手なのは分かっています。でも、私たちはすべてを失い、あの子の給食費さえ払うのが難しくなって……」
かつての敵の家族。
本来なら、私は彼女たちを冷たく追い返すこともできた。
けれど、今の私には「憎しみ」という科目は存在しない。
「入っていいわ」
私は彼女たちに温かいお茶を出し、父の万年筆で、新しい家計簿の書き方を教えた。
復讐の連鎖を止めるのは、勝利ではなく
こうした「日常の再建」なのだと、私は改めて心から理解した。
その頃
ルーツ・ガーデンの本社では、海が岐路に立っていた。
既存の巨大銀行グループが
ルーツ・ガーデンのシステムを「国家の基幹決済」として採用したいと、巨額の契約を持ちかけてきたのだ。
海は直樹譲りの鋭い瞳で、しかし直樹とは違う穏やかな声で答えた。
「……断ろう。俺たちは『巨大な何か』になるためにこれを始めたんじゃない。一人一人の一円を守るために作ったんだ。…詩織さんなら、きっとそう言う」
彼は、巨大な利権を「一円の迷いもなく」蹴り飛ばした。
それは、彼らが名実ともに直樹という「支配の数字」を超えた瞬間だった。
その夜、私の元に一つの小包が届いた。
差出人は、父がかつて贔屓にしていた老舗の宝飾店。
中には、父が私の結婚式の日に預け、あえて渡さなかったという「本物の結婚指輪」が入っていた。
『詩織へ。直樹君に渡す前に、これを預かっておく。いつかお前が、誰かの所有物としてではなく
自分自身の価値で輝ける日が来たら、その時にこの指輪を自分自身に贈ってあげなさい』
父の手紙には、最初からすべてが見えていたかのような慈愛が満ちていた。
私は、その指輪を自分の左手ではなく、右手の薬指にはめた。
誰かに誓うためではなく、私自身として生きていくための「証」として。
【残り2日】
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