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蒼乃(キャラボ中〜!)
第3話 目立つ喉
面談の日は、朝から喉の奥が妙に静かだった。
乾いているわけではない。
痛いわけでもない。
ただ、そこに何かが座っている感じだけがあった。
イオルは洗面台の前で口を開け、舌の位置を変え、声にならない息を少しだけ漏らした。鏡の中には、いつもの顔がいる。丸くひらいた外鰓。眠そうに見えやすい大きな目。何も知らなければ、朝に弱い人間にしか見えない輪郭。
服は何度も迷った末に、売場へ行くときより少しだけ整ったものを選んだ。
灰色の細い上着。
中は襟元のやわらかい緑のシャツ。
きつく見えない形の細身のパンツ。
鏡の前で立つと、ましには見える。
けれど、画面の中の誰かみたいにはならない。
端末の通知欄には、面談会場の地図と時刻、連絡先、それから短い文面が残っていた。
軽い雰囲気で大丈夫です。
そう書かれているほど、軽く行けない。
駅へ向かう道の途中、朝の商店街ではまだ看板を上げている最中だった。湿度を調整したガラス扉の店、低いカウンターの惣菜屋、通路の幅を広く取った衣料店。街は種に合わせて細かく姿を変えるのに、緊張している人間の歩き方だけは、どこでも同じになる。
イオルは気づくと、いつもより足が速くなっていた。
落ち着こうとして遅くする。
すると今度は、自分だけが周囲より遅れているように感じる。
やめる。
改札を抜ける。
ホームの端には大型画面があり、今朝の生活情報が無音で流れていた。住居の整え方、仕事の向き不向き、変異と職場の相性。切り替わる映像のひとつに、以前見たリクヤの顔がまた出る。軽い笑み。肩の抜けた立ち方。視線の置き方のうまい目元。
イオルは目をそらした。
見て落ち着く顔ではない。
見れば、自分の輪郭だけが野暮ったく感じる。
けれど、広告が切り替わる直前、リクヤが何か喋っている口元だけは、無意識に追っていた。
会場は、商業区の端にある小さな複合施設の四階だった。
大きな芸能事務所というより、生活情報系の制作会社が借りている臨時スペースに近い。受付には簡易の端末台。壁には、最近扱った番組の小さな宣材。華やかすぎない。けれど、売場の通路とは違う張りつめ方があった。
受付で名を告げる。
担当者が端末を確認し、控室の番号を伝える。
廊下には同じような年頃の人間が何人か座っていた。ダックスフンド頭の若い男は膝の上で手を組み、何度も指を開いて閉じている。メダカ頭の女は、小さな鏡で口元を整え直していた。別のウーパールーパー頭もいる。細い首。茶色のカーディガン。端末を見つめる目だけが落ち着かない。
同じ種。
その事実だけで、胸の内側が少しざらつく。
控室の番号札は二。
扉を開ける。
中には長椅子と低い机、壁際の水差し、端に立てかけられた姿見。窓は細く、外の光が床に四角く落ちている。
先客がひとりいた。
狐頭の若い女。
頬の線が細く、目尻の上がり方が綺麗だった。体の線を拾いすぎない淡い茶色のワンピースに、足首までの長い上着。座っていても、場の中で形が崩れない。イオルが入ると、軽く会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます」
声は落ち着いていた。
緊張しているようには見えない。
イオルは長椅子の端に座る。
膝の上に手を置く。
指先が少し冷たい。
壁の時計が進む音だけがやけに耳につく。廊下の気配。遠くで開く扉。誰かの笑い。誰かの靴音。全部が薄い膜の向こうにあるみたいに聞こえる。
狐頭の女が先に口を開いた。
「生活情報の枠ですか」
「たぶん」
「たぶん」
「補助枠だと聞いてます」
「同じです」
彼女は口元だけ少し笑った。
「わたし、再現寄りって言われました」
「再現」
「日常の短い芝居みたいなやつです」
そこで姿見へ視線を流す。
「向いてるって。自分ではよくわからないですけど」
「そういうものなんですね」
「そういうものなんでしょうね」
その言葉に、イオルは少しだけ肩の力が抜けた。
自分ではよくわからない。
その部分だけは、どこかで同じだった。
扉が開き、スタッフが顔を出す。
メダカ頭の若い男。丸い端末を片手に持ち、首には入館証を下げている。髪は短く、動きが早い。
「二番の方、先におひとりだけ声チェックします」
「はい」
狐頭の女が立ち上がった。
去り際、イオルに向かって小さく肩をすくめる。
「喉、がんばってください」
「そちらも」
扉が閉まる。
ひとりになる。
壁の時計の音がさらに大きくなる。
イオルは水差しに手を伸ばし、紙コップ半分だけ口に含んだ。冷たすぎない。喉の内側をなぞるように落ちていく。
声チェック。
その二文字だけで、急に胸の鼓動が喉へ上がってくる。
昨日まで、売場で出た声のことを、何度も考えていた。録画も見返した。声の伸び。やわらかいまま前へ行く感じ。言葉の先だけがするりと届く感覚。
あれが今日も出るのか。
出ないのか。
出たらどうなるのか。
出なかったらどうなるのか。
考えだすと、何も言えなくなる。
イオルは立ち上がり、姿見の前へ行った。
顎を少し引く。
肩を落とす。
目線を上げる。
やめる。
作ろうとすると消える。
リクヤの声が頭の中に残っている。
うまく見せようとすると、消えるタイプに見える。
消える。
その言葉を思い出した瞬間、鏡の中の自分がまた薄くなった気がした。
椅子へ戻る。
膝の上に手を置き直す。
ただ、待つ。
廊下の足音が近づく。
扉が開く。
さっきのスタッフが、端末を見ながら言った。
「イオルさん」
「はい」
「こちらへ」
立ち上がる。
足が少しだけ重い。
通されたのは、会議室を簡易のチェック室にしたような部屋だった。長机、折りたたみ椅子、角に小型カメラ、壁際のスタンド照明。奥には三人。先日名刺を渡したディレクター。初めて見る細身のダックスフンド頭の女。もうひとり、年配のメダカ頭の男が資料に目を通している。
ディレクターが先に笑った。
「来てくれたね」
「はい」
「緊張してる?」
「してます」
「してるようには見えないね」
その言い方に、イオルは何も返せなかった。
年配のメダカ頭が顔を上げる。
目は細いが、焦点の合い方が強い。髪は短く整えられ、襟付きの薄い灰色の服を着ていた。椅子に深く座っているのに、体の軸がぶれない。
「立ってみて」
「はい」
言われるまま、部屋の中央へ立つ。
床に貼られた小さな印。
そこに足を置く。
「名乗って」
イオルは息を吸った。
「イオルです」
それだけ。
それだけなのに、部屋の空気が少しだけこちらへ寄った気がした。
ディレクターの指が止まる。
ダックスフンド頭の女が、端末を見ていた目を上げる。
年配のメダカ頭は表情を変えない。
「もう一回」
「イオルです」
今度は少しだけ声が細くなった。
届いた感じはある。
でも、さっきより自分を意識したぶん、輪郭が少し曇る。
年配のメダカ頭が言う。
「椅子に座って」
「はい」
「そこで、水がおいしいって言ってみて」
「水が」
「おいしい、でいい」
言われた通り、椅子に座る。
紙コップを手に持たされる。
何をしているのか、途中からわからなくなってくる。
「水がおいしいです」
言った瞬間、ダックスフンド頭の女が小さく目を細めた。
ディレクターが机に身を乗り出す。
年配のメダカ頭の指先が、資料の端で止まる。
イオルは自分の喉の奥に、薄い熱が生まれるのを感じた。
さっきまで静かだった場所が、急に息をしはじめる。
「もう一回」
今度は立ったまま。
「水がおいしいです」
部屋の空気が、また少しだけ傾く。
小さな言葉なのに、やけに届く。
届くというより、相手の耳の近くへ自分から寄っていく感じ。静かなまま、なぜか無視しづらい。押しつけていないのに、向こうが顔を上げる。
イオルの背中に、ぞくりとしたものが走った。
年配のメダカ頭が言う。
「そのまま、窓のほう見て」
「はい」
「今日は天気がいい、って」
「今日は天気がいいです」
喉の奥の熱が少し大きくなる。
言葉を出すたび、部屋の中の視線がわずかに引かれるのがわかる。
ダックスフンド頭の女が、手元のペンを置いた。
ディレクターが笑いをこらえるみたいな顔で隣を見る。
年配のメダカ頭だけが静かだ。
「はい、いい」
その一言で、イオルはようやく息を吐いた。
気づかないうちに、肩が上がっていた。
「なんですか、これ」
自分の口から出たのは、その言葉だった。
ディレクターが吹き出しそうになって咳払いをする。
ダックスフンド頭の女が口元を押さえた。
年配のメダカ頭が、ようやく少しだけ笑った。
「こっちが聞きたい」
「いや、自分も」
「自分でやってて、わかる?」
「わからないです」
「わからないか」
男は椅子の背にもたれた。
「前に出るね」
「はい」
「無理に出してないのに、前へ来る」
「はい」
「面白い」
その言葉で、イオルの喉の奥の熱が急に落ち着いた。
面白い。
褒められたわけでも、採用だと言われたわけでもない。
それでも、何かを見つけられた時の言い方だとわかってしまった。
チェックはそこから少し長くなった。
自己紹介。
最近気になったもの。
好きな食べ物。
売場の仕事でよく聞かれること。
難しい内容ではない。むしろどうでもいい話ばかりだ。それなのに、喋るたび、相手の目線がこちらへ留まる。途中で言い淀んでも、変な言い方になっても、最後まで聞かれてしまう。
イオルはだんだん怖くなってきた。
喋れているからではない。
喋れていないところまで見られている感じがするからだ。
終わる頃には、喉の熱は少し疲れに変わっていた。
ダックスフンド頭の女が資料を閉じる。
「いったん待機でお願いします」
「はい」
「また呼ぶかも」
「はい」
部屋を出る。
廊下の空気が急に薄く感じた。
控室へ戻ると、狐頭の女はもういなかった。代わりに、別のウーパールーパー頭の男が座っていた。年齢はイオルより少し上だろうか。肩幅があり、髪をきれいに流している。薄い茶色のシャツに細い上着。見た目にかなり気を配っているのがわかる。
イオルが戻ると、その男は軽く目を上げた。
「どうでした」
「声を見られました」
「声」
男は少しだけ笑った。
「自分もそこ見られました」
「何かありました?」
「いや。普通でした」
普通。
その言葉に、イオルは返事ができなかった。
自分のさっきの時間は、普通ではなかったのかもしれないと思っている。それを口に出すのは、傲慢みたいで嫌だった。
男は端末を閉じ、膝の上へ置く。
「ウーパー、多いから」
「はい」
「顔だけじゃ抜けないですよね」
さらりとした口調だった。
諦めているようにも、言い聞かせているようにも聞こえる。
「そうですね」
イオルはそう返した。
男は少しだけ笑みを深くした。
「自分、前に別のとこも受けたんですけど、結局、生活感ある役ばっかりで」
「生活感」
「親しみやすい顔って便利なんですよ。便利だけど、便利のまま終わる」
その言い方が、どこか痛かった。
昨日までの自分なら、その言葉に深くうなずいていたはずだ。
いまも、半分はそう思っている。
でも、さっき部屋の中で起きたことだけが、その諦めの形へきれいには収まらない。
再び扉が開く。
スタッフが顔を出す。
「イオルさん、もう一度お願いします」
「はい」
立ち上がる。
隣の男が少しだけ目を細めた。
戻された部屋では、さっきと椅子の位置が変わっていた。
小型カメラが少し前へ出ている。
ディレクターが言う。
「今度は立ったまま、三つだけ試したい」
「はい」
「説明しようとしなくていいから、そこにある物を、その場で誰かに勧める感じで」
机の上には、生活用品が三つ置かれていた。
保湿クリーム。
小さな卓上扇。
布用の湿度計。
イオルは保湿クリームを手に取る。
軽い。
売場でも似たようなものを何度も持ってきた。
「これ、乾いた感じが残りにくくて」
言葉が出た瞬間、部屋の空気がまたこちらへ寄る。
喉の奥が熱い。
熱いのに、苦しくはない。
「手にのばしたあとも、べたつきすぎないので」
ディレクターが、小さく笑って首を振った。
ダックスフンド頭の女は、もう最初からイオルを見ている。
年配のメダカ頭だけが、目を閉じて聞いていた。
二つ目。
卓上扇。
「風が強すぎないので、長くつけてても疲れにくいです」
三つ目。
湿度計。
「数字だけじゃなくて、なんとなくの不快さが先に来る人には、置いてあると楽です」
言い終えるたび、部屋の中の静けさが深くなる。
誰も大げさに反応しない。
それなのに、聞いていない人の空気ではない。
年配のメダカ頭が目を開けた。
「顔を上げて」
「はい」
「いま、誰を見てる?」
イオルは息を止めた。
誰を。
そんなこと考えていなかった。
「わからないです」
「わからないままでいい。もう一回」
クリームを持つ。
言葉を選ぶ。
「乾いた感じが残りにくくて」
その時だった。
喉の奥の熱が、今までより少し大きく膨らんだ。
ふっと、部屋の輪郭が近くなる。
照明の光が、ほんのわずかにこちらへ集まるみたいな感覚。小型カメラの目が、急に深く見える。ディレクターの呼吸が一拍止まる。ダックスフンド頭の女が、資料に置いた指先を動かさなくなる。年配のメダカ頭の目だけが、少し鋭くなる。
イオルは自分が何かをしたのか、わからなかった。
ただ、喋りながら、部屋の全員が一度こちらへ引かれたのがわかった。
声だけではない。
立っている自分そのものへ、視線が集まる。
少し遅れて、怖くなる。
言葉が切れた。
沈黙。
それでも、誰もすぐには動かなかった。
ディレクターが最初に息を吐く。
「今の、見た?」
「見えましたね」
ダックスフンド頭の女が言う。
年配のメダカ頭は、視線をイオルから外さないまま言った。
「もう一回、今の前から」
「今の前」
「何を考えてた」
「考えてないです」
「考えてないか」
「はい」
「それで出るなら、なおいい」
イオルは喉を押さえたくなった。
やらない。
やったら消える気がした。
「もう一回」
イオルはクリームを持ち直す。
さっきより強く意識すると、熱が逃げる。
だめだと思う。
息をひとつ吐く。
売場の通路を思い出す。
棚の高さ。
客の目線。
枕の角。
何かを勧めるときの、自分が知っている距離。
「乾いた感じが残りにくくて」
また、来た。
今度はさっきより小さい。
でも確かに、相手の視線が一歩だけ寄る。
ダックスフンド頭の女の口元が上がる。
「変な喉」
「変ですね」
「変だね」
「すごくいい意味で」
ディレクターのその言い方で、少しだけ笑いが起こる。
イオルだけが笑えない。
自分の体の中に、自分が知らない何かがある。
それが人を引き寄せる。
それは嬉しいより先に、不気味だった。
チェックが終わる。
結果は後日と言われる。
よくある言い方だ。
でも、部屋を出る直前、ディレクターがイオルだけに名刺と別の連絡票を渡した。
「これ、念のため」
「何の」
「別枠の候補」
ダックスフンド頭の女が横から言う。
「生活情報だけじゃなくて、再現や短い進行補助も見たいです」
「進行補助」
「喋って人を止める力があるから」
「止める」
「呼び込み寄りかも」
年配のメダカ頭が最後に言う。
「喉だけじゃない」
「え」
「立ってる時も、少し寄る」
「……」
「自覚はなくていい。いまは」
いまは。
その言葉を持ったまま、イオルは部屋を出た。
廊下がさっきと違って見える。
通る人。
閉まる扉。
壁の案内。
全部そのままなのに、自分だけが少しずれている気がする。
控室に戻ると、さっきのウーパールーパー頭の男はもういなかった。
机の上に紙コップだけが残っている。
狐頭の女が再び座っていた。イオルを見ると、少し首を傾げる。
「長かったですね」
「たぶん」
「顔、変わってます」
「変わってますか」
「なんか、熱い顔してる」
イオルは喉に手をやりそうになって、途中で止めた。
「そうかもしれません」
「いいほうのやつですか」
「まだわからないです」
狐頭の女は笑った。
「わからないほうが、あとで効くときありますよね」
「そうかもしれません」
「採られるといいですね」
「そちらも」
「ありがとうございます」
施設を出ると、昼の光が少し強かった。
商業区の広場は人が多く、上層の回廊から落ちる影が細かく揺れている。飲食店の呼び込み、休憩中の会社員、端末を見ながら歩く学生、配送用の小型台車。みんなそれぞれの速度で流れている。
イオルは建物の脇に寄り、壁にもたれた。
喉がまだ熱い。
熱いのに、声を出さなくても、何かが前へ出ようとしている感じがある。
意味がわからない。
試したくない。
試してみたい。
その両方が同時に来る。
端末が震える。
ミナセからだった。
『どうだった』
少し考える。
言葉がまとまらない。
『喉が変でした』
送る。
すぐに返る。
『なにそれ』
そのあと、フミからも来る。
『終わった?』
『終わりました』
『泣いてないならよし』
イオルは少しだけ笑った。
笑った瞬間、前を歩いていた通行人がひとり、なぜかこちらを見た。
見間違いだと思う。
でも、もうひとりも見た。
イオルは笑みを消す。
通行人はそのまま歩いていく。
胸の鼓動が少し早くなる。
近くの飲み物屋の前には、小さな立て看板が出ていた。新しい冷茶の試飲。店頭には、アルバイトらしきメダカ頭の少年がひとり立っている。客足は悪くないが、立ち止まる者は少ない。
イオルは何気なく、その横を通り過ぎようとした。
そのとき、少年が紙カップを差し出しながら言った。
「どうぞ」
普通の呼び込みだ。
普通の声。
なのに、イオルはなぜか立ち止まっていた。
受け取る。
一口飲む。
すっきりしている。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
返したその声で、今度は別の通行人が足を止めた。
イオルは少年のほうを見た。
少年も目を丸くしている。
さらにもうひとり。
紙カップを取る。
少年が慌てて追加を注ぐ。
イオルは喉の奥がまた熱くなるのを感じた。
違う。
今のは、自分が呼び込んだわけじゃない。
でも、自分がそこに立って声を返した瞬間、通りの視線が少しだけ曲がった。
イオルはその場を離れた。
早足になる。
後ろを見ない。
広場の端まで来てから、ようやく息を吐く。
何なんだ。
声だけじゃない。
存在感。
そんな言葉が浮かぶ。
浮かんで、すぐに嫌になる。
自分みたいな人間に似合う言葉ではない。
でも、さっき部屋の中で起きたことも、店先で起きたことも、ほかの言い方が見つからない。
電車に乗る。
空いた席に座る。
窓に映る自分の顔は、朝と同じ輪郭のままだ。眠そうな目。やわらかい口元。冴えない印象。変わらない。
変わらないのに、何かだけが少し前へ出る。
同じ種のタレントたちが広告で持っていたものに、ほんの一部だけ触れてしまったみたいな感覚。
それが嬉しいのか、怖いのか、まだ決められない。
帰宅すると、部屋の空気は少しぬるかった。
上着を脱ぐ。
机に連絡票を置く。
名刺の横に並べる。
紙が増える。
増えるたび、何もないと言い切れなくなっていく。
端末を起動する。
前面カメラ。
自分の顔。
少し疲れている。
喉のあたりへ意識が寄る。
「イオルです」
言う。
画面の中の自分は相変わらず平凡だ。
でも、言った瞬間、さっきの部屋みたいに、目がこちらへ寄る感じがほんの少しだけある。たった一人の録画なのに、自分で自分を見直してしまう。
イオルは録画を止める。
再生する。
また見る。
何度か繰り返すうち、ある瞬間だけ、確かに前へ出ているのがわかる。
立ち方が変わったわけではない。
顔が急に整ったわけでもない。
喉の奥から出た何かが、映像の表面に薄く張っている。
「変な喉」
思わず、昼に言われた言葉を口にする。
部屋の中で、自分の声が妙に残る。
イオルは椅子に座った。
膝の上へ肘を置き、しばらく動かない。
有名になれたら。
その小さな欲望は昔からあった。
けれど、今日みたいに、ほんの少しでもそれに手が届く気配がしたことはない。
気配だけ。
まだ何も決まっていない。
何者でもない。
それでも、喉の奥に座った熱だけは、本物みたいだった。
夜が深くなる。
端末がまた震えた。
知らない番号。
昼の制作会社からだった。
文面は短い。
本日の確認ありがとうございました。
追加で短いテスト収録の候補日を送ります。
可能なら、明後日。
イオルはその文字を見たまま止まった。
候補日。
追加。
短いテスト収録。
端末の光が、指先の湿りを拾う。
返事はすぐには打てなかった。
嬉しいより先に、あの部屋の空気と、通りで人が足を止めた感じが蘇る。
自分が人を引き寄せた。
偶然ではなく。
少なくとも、一度ではなく。
その事実が、静かに怖い。
でも、目は通知を閉じなかった。
閉じられなかった。
やがて、短く返す。
『可能です。お願いします』
送信。
終わる。
机に端末を置く。
置いたのに、胸の鼓動だけが落ち着かない。
寝台へ横になっても、喉の奥にはまだ熱の名残があった。痛みではない。熱。灯りを消した部屋の中で、そこだけがうっすら明るい気がするほどだった。
天井を見る。
静かだ。
静かなのに、昼の部屋へ戻される。
「イオルです」
「水がおいしいです」
「乾いた感じが残りにくくて」
どれも短い。
短いのに、相手の耳の近くへ行った。
あれが変異なのだろうか。
そう考えると、急に現実味がなくなる。
朝まで何も知らなかった自分の中に、そんなものがあったのか。
それとも、今日ここで初めて起きたのか。
答えはない。
でも、変異速報の表示板に流れる誰かの話ではなく、自分の体の話として考えた瞬間、胸の内側が静かに震えた。
翌朝。
駅前の通りは、いつも通り人で満ちていた。
看板。
配送台車。
種別対応の案内灯。
通勤の速度。
全部、昨日までと同じだ。
イオルは改札前のガラスに映る自分を見た。
眠そうな目。
やわらかい口元。
冴えない輪郭。
そのまま。
そのままなのに、視線を上げると、通りすがりの何人かが、ほんの一拍だけこちらを見る。
気のせいかもしれない。
気のせいではないのかもしれない。
イオルはホームへ向かった。
喉の奥に、また静かな熱が座っている。
それは昨日までの不安と似ているのに、どこか違った。
見つかってしまったものの熱だった。