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蒼乃(キャラボ中〜!)
第4話 軽い応募
朝の売場は、開店前のくせに少しだけ浮ついていた。
二階の通路に並ぶ特設棚はまだ半分しか片づいていない。昨日までの仕事特集の名残が、冊子の角や見本台の擦れ跡として残っている。値札の差し込み口には細かな埃がたまり、薄い保護板の裏には指の跡がいくつも残っていた。
イオルはその跡を拭きながら、胸ポケットの中の紙の感触を何度も確かめていた。
折らないように入れた応募票。
昨夜、端末から送るだけで済む簡易応募を、半分冗談みたいな気持ちで押した。送信画面の最後に出た、応募完了、という小さな表示だけが妙にはっきりしていて、そのあとしばらく、画面を閉じる指が動かなかった。
冗談。
そう思ったのはほんの最初だけだ。
送ったあとの紙の感触は、冗談にしては少し重かった。
「まだそこ拭いてる」
背後からフミの声がした。
振り返る。
メダカ頭の細い輪郭が、朝の照明で少しだけ硬く見える。今日は帽子を浅くかぶり、袖をきっちり折っていた。端末を片手に持ち、通路の端からこちらを見ている。
「拭き跡が気になって」
「気にしすぎ」
「気になると残るので」
「顔にも出てる」
フミは近づき、イオルの胸ポケットのあたりを目で示した。
「送った?」
「何をですか」
「その顔でとぼけるの下手」
イオルは拭き布を畳んだ。
「送っただけです」
「行くんだ」
「まだわからないです」
「送ったなら半分行ってるでしょ」
言いながら、フミは棚の端を指でなぞる。
「ここ、まだ曇ってる」
「さっき拭きました」
「拭いてこれなら、今日はだいぶ浮いてるね」
イオルは返事をしなかった。
浮いている。
その言葉はたぶん当たっていた。
喉の奥には、あの日から残っている熱の薄い名残がある。痛くはない。けれど、何かを言いかけるたび、そこだけ少し先に息をする。
「何の枠?」
「生活補助の短い案内と、再現が少し」
「再現」
フミの目が少しだけ細くなる。
「芝居っぽいやつ?」
「そうだと思います」
「ふうん」
それだけ言って、フミは通路の先を見た。
「向いてるかもね」
「何がです」
「軽く見えるとこ」
イオルは顔を上げた。
フミは肩をすくめる。
「冴えない感じじゃなくて、力んでない感じ。生活系の再現だと強いでしょ」
「褒めてます?」
「いまは」
フミは去り際、いつもの無造作な足取りで言った。
「変なことやって落ちても、午後からちゃんと戻ってきて」
その一言だけで、売場の床が急に現実へ戻ってくる。
戻る場所。
二階と三階。
補充箱。
湿度調整の案内札。
値引きシール。
その全部があるまま、今日だけ別の場所へ行く。
昼前に早退する予定は、もう店長にも伝えてあった。イノシシ頭の店長は名簿に印をつけながら、鼻先で笑っただけだった。
「売場の声が外でどう転ぶか、見てこい」
「転ばないかもしれません」
「転ぶならそれも売場の勉強だ」
「勉強になるんですか」
「ならなかったって顔で帰ってきたら、ちょっと面白い」
そう言って、店長は別の指示へ戻っていった。
誰も大ごとにはしない。
それがありがたくて、少しだけ腹が立つ。
自分だけが大ごとにしそうになるのを、周りがうまく薄めている気がした。
昼休憩の前、ミナセが三階から降りてきた。
今日は薄い緑のインナーが制服の襟元からのぞいている。丸い外鰓の先に少しだけ艶があり、頬の印象がいつもより明るい。階段を下りてくるなり、イオルの前で足を止めた。
「今日だっけ」
「何がです」
「今日じゃないふり、もういいって」
「そんなに顔に出てます?」
「出てる」
ミナセは小さく笑う。
「でも、前みたいな沈んだ出方じゃないね」
「前」
「売場で終わる感じしてた時」
「そんなにはっきり」
「してたよ」
言ってから、少しだけ目をやわらげる。
「いまは、まだ売場の人なのに、たまに違うとこにいる顔する」
「違うとこ」
「見られてるの知っちゃった顔」
イオルは視線をそらした。
その言い方は嫌なくらい正しかった。
見られる。
聞かれる。
止められる。
そういう感覚を知ってしまったあとでは、売場の通路も少しだけ狭く見える。
「行ってきたら、何か変わるかな」
「変わらないかもしれないです」
「変わったら?」
「困ります」
「じゃあ変わるね」
ミナセは明るく言い切った。
「困るほうへ、だいたい動くもん」
昼過ぎ。
イオルは制服を脱いで、従業員通路の狭い鏡の前に立っていた。
灰色の細い上着。
襟のやわらかい茶色寄りのシャツ。
売場のにおいが残らないよう、朝より少しだけ丁寧に整えた髪。
鏡の中のウーパールーパーは、やっぱり派手ではない。眠そうな目。丸い口元。人を押しのけて前へ出る顔ではない。
それでも、昨日までの自分より、少しだけ先があるようにも見える。
胸ポケットの応募票に触れる。
端末の画面には会場案内。
小さな時間。
短い審査。
軽い応募。
軽い。
その言葉を頭の中で繰り返すたび、逆に足が重くなった。
会場は制作会社の本室ではなく、少し離れた別フロアの簡易スタジオだった。
生活系の再現や短い案内を撮るための場所らしい。受付の横には姿見、壁には過去の番組写真、奥には折りたたみ椅子が並び、待機用の机の上には紙コップと水差し。空気は清潔すぎて、売場の湿り気に慣れたイオルの喉には少し乾いて感じられた。
受付で名を告げる。
端末に印を入れられる。
番号札は七。
待機スペースにはもう何人かいた。
ダックスフンド頭の若い男は、膝の上に台本のような紙を置いて何度も読み返している。狐頭の女は姿勢よく座り、目を閉じて呼吸を整えていた。ウーパールーパー頭は三人。そのうち二人は、同じ種特有の親しみやすい輪郭を、服や髪の整え方でどうにか差別化しようとしているのが見て取れた。
ひとりは細身で、茶色のシャツに長い上着。目元を少し濃く整え、外鰓の先を丁寧にまとめている。もうひとりは肩幅が広く、柔らかな灰色のジャケットに、襟元の開いた緑寄りのシャツ。笑えば画面映えしそうな口元だ。
イオルは長椅子の端に座った。
隣にいたメダカ頭の男が、視線だけ寄こす。
年齢は二十代後半くらい。髪は短く、襟のあるモカ色の服に細い腕時計。顔つきは整っているが、爪の先だけが落ち着かない。
「初めてですか」
「たぶん」
「たぶん」
男は少し笑った。
「そういう答え方、嫌いじゃないです」
「自分でもよくわからないので」
「軽い枠ほど、そういう人多いですよ」
男は紙コップを持ち上げる。
「でも、軽い応募って、だいたい軽く終わらないですよね」
「そうなんですか」
「終わる時は、一瞬で」
言ってから、自分の言い方が嫌だったのか、肩をすくめる。
「すみません。変な言い方しました」
「いえ」
「自分、前に別のところで、なんとなく送って、なんとなく呼ばれて、なんとなく落ちたので」
「なんとなくで、ここまで来られるのもすごいです」
「来るだけならね」
男は苦く笑った。
「来てからが長い」
その言葉のあと、待機スペースのざわめきが少しだけ濃くなる。
スタッフが何かを運び込み、奥の扉が開いて閉じる。向こうには照明の部屋があるのだろう。そこから漏れる光が床に長く伸びていた。
イオルは喉に手をやりそうになって、やめた。
さわると意識しすぎる。
意識しすぎると、消えそうな気がする。
名前が呼ばれる。
番号順に二人ずつ、奥へ消えていく。
戻ってくる者もいれば、そのまま別室へ案内される者もいる。違いは表情ではよくわからない。けれど、帰ってくる足音の軽さや重さだけは、はっきり違った。
七番。
ようやく呼ばれた時、イオルは立ち上がる前に一度だけ膝を押した。
足の感覚を確かめる。
まだ大丈夫だと思う。
通されたのは、簡易のセットが組まれた部屋だった。
壁際に小さな食卓。
その横に観葉植物。
反対側には低い棚と、生活用品の並んだ見本台。
再現用にどちらにも転べる、中途半端で都合のいい部屋。
審査側は四人いた。
先日のディレクター。
ダックスフンド頭の細身の女。髪をきっちり結び、襟元の整った灰色の服を着ている。姿勢がまっすぐで、言葉が速そうな顔。
年配のメダカ頭の男。前に見た時と同じ薄い色味の服。視線だけが強い。
そして、初めて見るウーパールーパー頭の女。年齢は三十代くらい。外鰓を短く整え、落ち着いた茶色のジャケットに、柔らかなモカ色のインナー。目元の印象が静かで、笑っていなくても圧がない。そのぶん、何を見ているか読みにくい。
イオルはその人の前で、急に喉が乾いた。
同種の審査員。
それだけで、比較の匂いが近くなる。
「お願いします」
ディレクターが言う。
「今日は短い再現と、話してる時の感じだけ見ます」
「はい」
「台本ってほどじゃないから、軽く」
軽く。
またその言葉だ。
ダックスフンド頭の女が紙を一枚差し出す。
「これ、店頭で商品のことを友人にすすめる感じ」
「はい」
「次が、帰宅して疲れてる時に、今日の出来事を話す感じ」
「はい」
「最後は、その場で」
その場で。
そこまで聞いた時点で、イオルの喉の奥に少しだけ熱が灯った。
まだ小さい。
けれど、いる。
「じゃあ、まず立ってみて」
年配のメダカ頭が言う。
床の印へ立つ。
いつものように、何をすればいいのか少しわからなくなる。
胸を張ると作る感じが出る。
力を抜きすぎると棚に戻る。
何もしないのがいちばん難しい。
「名乗って」
「イオルです」
言った瞬間、ダックスフンド頭の女が、手元の紙から目を上げた。
先日の部屋でも見た反応だ。
小さい。
でもある。
年配のメダカ頭の指先がわずかに止まる。
ウーパールーパー頭の女だけが表情を変えなかった。
「紙、見ていいです」
一枚目。
商品をすすめる短い文。
イオルは目で追う。
文字は簡単だ。生活用品の案内に似ている。売場で似たようなことを言ったこともある。
「ではどうぞ」
イオルは息をひとつ置いた。
「これ、使いやすいです」
喉の奥の熱が少し前へ出る。
「朝に急いでても、手間がかからないので」
ダックスフンド頭の女が、手元のペンを置く。
「置き場所も取らないから、部屋が狭くても邪魔になりにくいです」
イオルは言い終えてから、妙な静けさに気づいた。
大げさな拍手もない。
笑いもない。
ただ、審査側の空気だけが、少しこちらへ傾いている。
ディレクターが隣を見る。
年配のメダカ頭が、口元に指を当てた。
ウーパールーパー頭の女だけが、イオルの立ち方全体を見ている。
「はい、次」
二枚目。
疲れた帰宅後の会話。
さっきより少しだけ芝居寄りだ。
イオルは紙を持ち直す。
帰宅したとき。
疲れた時。
部屋の湿り気。
脱いだ上着。
机の上の紙。
そういうものなら、想像しやすい。
「今日、変なことあって」
口を開いた瞬間、自分の中の何かが少し変わった。
さっきより、言葉が相手の近くへ行く。
作ってはいない。
でも、何気なく言ったつもりの一言が、そのまま場の中心へ落ちる。
「なんか、声を出すたびに」
そこまで言って、イオルは自分でぞくりとした。
いま、自分が書かれた文ではなく、自分の言葉を混ぜたからだ。
ダックスフンド頭の女の眉が上がる。
ディレクターが前のめりになる。
年配のメダカ頭の目が細くなる。
ウーパールーパー頭の女が、初めてほんの少しだけ首を傾げた。
「ちょっと待って」
女審査員が言った。
声は低く、静かだった。
「今の、台本にないですね」
「すみません」
「謝らなくていいです」
そのまま、彼女は少し椅子を前へ寄せる。
「もう一回、最初からじゃなくて、いまの感じで」
「いまの感じ」
「疲れて帰ってきて、誰かに話す感じ」
「はい」
イオルは紙を下ろした。
見ない。
見たら戻る。
喉の奥の熱だけを意識しないようにして、部屋の端の棚を見る。
自分の部屋じゃない。
でも、帰宅後の机みたいな位置がそこにある。
「今日、変なことあって」
また、静けさが寄る。
「別に大したことじゃないんですけど」
言いながら、イオルは、これが審査だということを半分忘れかけていた。
誰かに喋っている。
その距離感だけが残る。
「なんか、人に見られる感じが、変で」
ダックスフンド頭の女が息を止める。
ディレクターは口元に手を当てた。
年配のメダカ頭が、低く小さく何かを漏らしたが、聞き取れない。
ウーパールーパー頭の女だけが、目を細くしている。
「はい、いいです」
年配のメダカ頭が切った。
イオルはようやく息を吐いた。
自分でも少し、危なかったと思う。
台本から外れた。
そのことより、外れたほうが前へ出たことのほうが怖かった。
ダックスフンド頭の女が最初に言う。
「軽い応募って聞いてたんですけど」
「そうです」
「軽くないですね」
冗談みたいな言い方だったが、目は冗談ではなかった。
「狙ってます?」
「何をですか」
「いまの寄せ方」
「寄せ方」
イオルは首を振った。
「わからないです」
「わからない、か」
「はい」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そこで、ウーパールーパー頭の女が初めて口を開いた。
「あなた、自分がどう見えると思って来ましたか」
その問いは、台本より難しかった。
イオルは答えを探す。
冴えない。
平凡。
同種の中に埋もれる。
そういう言葉がいくつも浮かぶ。
けれど、その部屋で口に出すには、どれも湿りすぎている気がした。
「生活感があると思ってました」
「生活感」
彼女の目が少しだけ動く。
「それは強み?」
「たぶん、便利なほうだと」
「便利」
言葉を反復されるたび、自分の答えが薄く感じる。
ウーパールーパー頭の女は腕を組まなかった。机に手を置いたまま、静かに続ける。
「便利な顔や声は、たくさんいます」
「はい」
「でも、あなたはいま、便利だけでは終わっていない」
「……」
「なのに、自分ではそこに立っていない」
イオルの喉の奥が、また少し熱くなる。
彼女はそれを見ているのかもしれないと、ふと思った。
「もう一つだけ」
年配のメダカ頭が、机の上の紙を閉じる。
「こっちを見ないで、部屋の外の誰かを呼ぶみたいに、一言だけ」
イオルは戸口の横を見る。
外には待機スペースがある。
知らない誰かが座っていて、紙コップを持って、番号を待っているかもしれない。
自分の番が近いかどうかで呼吸を変えている、誰か。
イオルは喉の熱を忘れようとした。
忘れられない。
けれど、そのままにしておく。
「どうぞ」
一言だけ。
その瞬間だった。
部屋の空気が、目に見えないのに動いた気がした。
ディレクターがはっきりと身を起こす。
ダックスフンド頭の女が、顔ごとこちらへ向く。
年配のメダカ頭のまぶたがわずかに開く。
そして、ウーパールーパー頭の女の目の奥に、初めてはっきりした違和感が走った。
違和感。
そうとしか言いようがない顔だった。
見つけた、でも、当てた、でもない。
もっと静かで、もっと慎重な顔。
何かが予定と違う、と判断した顔。
イオルは自分の手のひらに汗が浮くのを感じた。
「今の、もう一回できますか」
彼女が言う。
「できますか」
「わからないです」
「わからないままで」
イオルはもう一度、戸口のあたりを見る。
何もない。
誰もいない。
それでも。
「どうぞ」
さっきより少し弱い。
でも、また、寄る。
部屋の視線がこちらへ集まる。
数秒。
ほんの数秒なのに、無視しづらい沈黙が生まれる。
ダックスフンド頭の女が小さく笑った。
「怖いですね」
「怖い」
「いい意味で。聞いちゃう」
年配のメダカ頭は、視線をイオルから外さずに言った。
「これ、案内役の枠で来てるけど」
「そうですね」
「別のものも混ざってる」
ディレクターが腕を組む。
「生活系の顔で、止める力だけ強いと、ちょっと変なんだよね」
「変」
イオルはその言葉を繰り返した。
また、変だと言われる。
喉。
声。
存在感。
どれもまだ、自分の中でひとつに繋がっていない。
ウーパールーパー頭の女が、短く息を吐いた。
「あなた、誰かの話を聞く側より、見られる側に寄る瞬間があります」
「見られる側」
「自覚はなさそうですけど」
「ありません」
「でしょうね」
その言い方は責めていなかった。
責めていないのに、イオルの胸の内側だけが少し痛くなる。
同種の審査員に見抜かれる。
その形が思っていたより静かで、逃げ場がなかった。
「今日はここまでで」
ダックスフンド頭の女がまとめに入る。
「結果はすぐではないですが、別の確認をお願いする可能性があります」
「はい」
「応募内容とは少し違う見方になってます」
「はい」
「それでも大丈夫ですか」
「わかりません」
言ってから、まずいと思った。
だが、年配のメダカ頭が小さく笑った。
「それでいい」
「いいんですか」
「わかってる顔で来る人間より、まだ信用できる」
退出する。
部屋を出る時、ウーパールーパー頭の女だけが最後までこちらを見ていた。
見られている。
見られる側。
その言葉が、廊下へ出ても、しばらく耳の近くに残った。
待機スペースへ戻ると、空気がやけに薄く感じた。
最初に話しかけてきたメダカ頭の男が、イオルの顔を見るなり、少しだけ眉を上げる。
「長かったですね」
「そうでしたか」
「そうでした」
男は紙コップを机に置く。
「落ちた顔ではないですね」
「どんな顔ですか」
「自分でもよくわかってなさそうな顔」
イオルは少しだけ笑った。
「それはそうかもしれません」
「変な手応えがある時って、だいたい嫌な感じしますよね」
「嫌かもしれないです」
「でも、残る」
男はそう言ってから、自分の番号が呼ばれ、立ち上がって去っていった。
ひとりになる。
端末を開く。
通知はない。
胸ポケットの紙だけが重い。
軽い応募。
半分冗談。
そんなつもりでここまで来たのに、いまは冗談のほうが先に消えていた。
施設の外へ出ると、空はまだ高かった。
商業区の上層回廊から落ちる影が、通りのタイルに細く並ぶ。人は多い。どこかの店先で小さな音楽。配送台車の車輪音。笑い声。呼び込み。日常の真ん中。
イオルは建物の横へ寄って、壁に肩を預けた。
喉の奥が熱い。
さっきの部屋で二度、「どうぞ」と言った時の空気が、まだ手元に残っているみたいだった。
自分が何をしたのか、よくわからない。
ただ、人がこちらへ寄る。
見てしまう。
聞いてしまう。
そして審査員は、違和感を持った。
それが少し嬉しくて、かなり怖い。
端末が震える。
ミナセから。
『終わった?』
イオルはすぐには打てなかった。
やっと打つ。
『たぶん、違う枠で見られました』
すぐ返る。
『なにそれ、いいやつ?』
『まだわからないです』
少し間が空いて、もう一通。
『わからないやつは、だいたい後で効く』
その言い方が、待機室の狐頭の女と少し似ていて、イオルは思わず息をこぼした。
帰りの電車は混んでいた。
つり革を持ち、窓に映る自分を見る。
灰色の上着。
少し乱れた襟元。
眠そうな目。
やわらかい口元。
冴えない輪郭。
何も変わっていない。
でも、今日、自分を見た四人のうち三人は、違うものを見ていた。
いや、四人ともかもしれない。
自分だけが、まだ見ていない。
そのことが急に、胸の奥をざわつかせた。
店へ戻ると、夕方の客足が少し落ち着いた頃だった。
裏口から入る。
従業員通路の湿り気が妙に安心する。
制服へ着替える。
鏡の前で、上着を脱いだ自分は、さっきの会場にいた時より、急に売場の人間へ戻って見えた。
フミが通りがかりに言う。
「で」
「何がです」
「軽いやつ」
「軽くなかったです」
「だろうね」
フミはそれ以上聞かず、通路の先で箱を持ち上げる。
その背中がありがたかった。
ミナセは三階から降りてきて、すぐ顔をのぞき込む。
「どうだった」
「違和感を持たれました」
「なにそれ」
「自分にもよく」
「褒められた?」
「たぶん違います」
「嫌がられた?」
「それも違います」
「じゃあ、いいやつだ」
ミナセは勝手に決めて笑う。
「だいたい、すぐ名前がつく評価より、その場で困らせるほうが後に残る」
その言い方も、今日どこかで聞いたものに似ていた。
売場へ戻る。
補充箱を抱える。
通路の端で値札を直す。
客に聞かれて、棚の位置を答える。
「どうぞ」
その一言が、自分でも少し違って聞こえた。
客が顔を上げる。
ほんの一拍だけ、視線が留まる。
イオルは喉の奥の熱が再び灯るのを感じた。
やっぱりいる。
売場でも。
会場でも。
日常の中でも。
帰宅後、机の上に新しい紙が増えた。
会場で返し忘れた簡単な注意書き。裏には次回連絡の可能性が印字されている。名刺。応募票の控え。雑誌。録画した端末。
紙ばかり増える。
何もない人の机ではなくなっていく。
イオルは椅子に座り、前面カメラを起動した。
部屋は静かだ。
共用調整の低い音だけが壁の向こうで響く。
画面の中の自分は、今日も冴えない。
でも、冴えない顔のまま、どこかへ引っかかる。
「どうぞ」
言ってみる。
部屋の中で、自分の声が薄く残る。
もう一度。
「どうぞ」
さっきの部屋の沈黙が少しだけ蘇る。
見返す。
録画の中で、イオルは大した動きもしていない。ただ、少し前へ出ている瞬間がある。目の置き方でも、口元の形でもない。喉の奥から出た何かが、画面の手前で引っかかっている。
イオルは録画を止めた。
机に肘をつき、しばらく動かない。
半分冗談で受けた応募だった。
本気の人間たちに混ざって、軽い気持ちで送った紙だった。
それなのに、審査員はそこに違和感を持った。
便利なだけでは終わらない。
見られる側に寄る瞬間がある。
別のものも混ざってる。
その言葉たちが、部屋の湿り気の中で沈まずに浮いている。
自分にはまだ、それに似合う覚悟も言葉もない。
でも、冗談ではなくなったことだけは、はっきりしていた。
寝台へ横になる。
天井を見る。
静かな夜。
喉の奥の熱は小さい。
小さいのに、消えない。
見つけられたのか。
違和感を持たれただけなのか。
その違いもまだわからない。
わからないまま、胸の奥の小さな欲望だけが、少し形を変えて残っていた。
有名になれたら。
前は、その一言はもっと遠くて、もっと軽かった。
いまは少しだけ重い。
重いまま、眠れないほどではない。
でも、明日も机の上に紙が残っていることを、たぶん何度も確かめる夜だった。