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玄関ホールに入ると、空気が少し変わった。
朝の光の中で、一人の少女が立っていた。
足元にはスーツケースがひとつ。背筋を伸ばし、静かに待っている。
年は若い。
執事というより、来客に近い印象だった。
執事長が、僕の方を見る。
「君が案内役だ。教育係も兼ねて頼む」
短くそう言われ、僕は一歩前に出た。
「……よろしくお願いします。かやまたいちです。大智と呼んでください」
声をかけると、少女は小さく頭を下げた。
「近藤花音です。こちらこそ。よろしくお願いします」
言葉遣いは丁寧で、落ち着いている。
それが、この屋敷では少しだけ浮いて見えた。
周囲では、他の執事たちが仕事を続けている。
視線が向けられることはない。
けれど、動きがわずかに鈍っているのが分かった。
「では、こちらへ」
僕は歩き出し、少女は後ろをついてくる。
廊下を進みながら、館の基本的な説明をする。
食堂、客室、立ち入りを控える場所。
どれも決まりきった内容だ。
「この屋敷は、個人の所有です」
「家主の方針で、立ち入りに制限のある区画があります」
少女は、静かに頷いた。
「家主の方は……」
そう言いかけて、言葉を切る。
「普段は、あまり表に出られません」
言葉を選びながら、そう伝える。
「夜は、決まった時間に消灯があります。消灯後は、基本的に部屋から出ないでください」
少女は、少しだけ考えるような素振りを見せた。
「……分かりました」
返事は静かだった。
「この屋敷については、どのくらい知っていますか」
「古い館で、執事の仕事がある、ということくらいです」
「最近のことは?」
「……特には」
一拍の後、そう答えた。
否定の言葉だったが、強さはなかった。
まるで、話題をそっと閉じるような言い方だった。
階段を上りながら、彼女が言う。
「思っていたより、広いですね」
「慣れるまでは迷います」
「……そうですね」
それ以上、会話は続かなかった。
廊下の突き当たりで、花音は足を止めた。
そこは、他の部屋とは少し違う空気をまとっていた。
扉は分厚く、取っ手には過剰なほど磨き込まれた金属の光が残っている。
立ち入り禁止の札は出ていないが、誰も近づこうとしない場所。
「……ここって」
「どうしました?」
「この部屋……何があるんですか」
一瞬だけ、彼の視線が扉に向いた。
ほんの一瞬。
けれど、花音はそれを見逃さなかった。
「ここは、主人のコレクションルームです」
「コレクション……?」
「ええ。個人的な趣味の部屋ですね」
それ以上の説明がないのを不思議に思って、花音は少し踏み込む。
「どんなものを、集めているんですか」
彼は、すぐには答えなかった。
廊下の先に誰もいないことを確認してから、声を落とす。
「……主に、花です」
「花?」
「赤い花が多いですね」
その言葉に、花音の胸がわずかにざわついた。
「赤い……花?」
「はい。生花ではありません」
「押し花や、乾燥させたもの、標本のように保存されたものです」
淡々とした説明だった。
まるで、珍しくもない事実を述べるように。
「数が……かなりあります」
「かなり?」
「ええ。この屋敷の中で、一番“色が濃い”部屋かもしれません」
花音は、無意識に扉から一歩離れた。
赤い花。
屋敷の庭。
廊下の装飾。
「……好きなんですね、赤い花」
探るように言うと、彼は小さく首を傾けた。
「さあ。好き、というより……」
「意味を重ねている、という方が近いかもしれません」
「意味?」
「赤は、分かりやすいでしょう」
「生きていることも、失われることも」
その言い方が、あまりに静かで、
花音は言葉を失った。
「……中、見たことありますか」
問いかけると、彼ははっきりと首を振った。
「ありません」
即答だった。
「主人以外は、入らないことになっています」
「掃除も、ご本人がなさる」
「そう……なんですね」
花音は、もう一度だけ扉を見る。
閉じたままのその向こうに、
どれだけの赤が並んでいるのか。
「夜は、特に近づかない方がいいですよ」
不意に、彼が言った。
「どうしてですか」
「……気分が悪くなる人がいるので」
それが誰なのかは、言わなかった。
「分かりました」
花音は、そう答えた。
けれど、胸の奥では、
その部屋が“見せないための場所”であることだけが、
はっきりと残っていた。
赤い花の部屋。
それは、飾るためのコレクションなのか。
それとも——
忘れないための記録なのか。
花音は、その答えを聞かなかった。
聞いてはいけない気が、していたから