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家の前で待つこと数分。思いのほか早く自宅前にやってきたタクシーに乗り込み、運転手に新宿駅西口方面と行先を告げた。
目指すはエンビル。
タクシーが走り出して暫くは心臓が早鐘を打つのを抑えられなかった。自分がここまで行動的だとは思わなかったけど、不思議と怖さはない。
あるのはただ、怒りと悔しさ、そして強い決意だけ。
涼二の顔を思い浮かべるだけで、つい奥歯を噛みしめてしまうほどの強い怒りが込み上げる。理咲とのやり取りを見るまでは、頭お花畑で、いつか自分の下に彼が帰ってくると信じていた。ほんと、無駄な時間を過ごしていたわ。
彼の変わり身がわかったときにでも、すぐに別れておけばよかった。
タクシーの窓越しに都会のネオンが流れていく。夫のことをあれこれ考えているといつに間にか住宅街を抜け、新宿付近を走っていた。やがて指定した西口の繁華街に到着した。
深夜の新宿は雑然としていて、どこか危うげな空気が漂っている。
しかも午前0時を回っているのに、想像以上に賑やかだった。お店も閉店して、もっと暗いのかと思っていたが違っていた。
深夜でしかも新宿の繁華街に足を踏み入れること自体が初めてで、私は軽く深呼吸をした。ホストらしき人が歩いていたり、酔っ払いが路上でうずくまっていたり、いろいろと自由。
予め調べておいたので、迷わず到着できた。
メイン通りから少し離れた一本先の路地を入ったところの古めかしい雑居ビルの地下に、目的の店、エンビルがあった。
このビルの1階は深夜営業している焼き肉屋、2階は飲み屋が3件ほど入っている。4階建てで、どこのフロアにもお店が入っていた。
ビルの案内板にB1『Ber エンビル』と書かれていた。見ただけで背中に緊張が走る。薄暗くて、まるで秘密の場所へ誘い込むような雰囲気だ。秘密めいた匂いが漂っている。
恐る恐る地下へ降りた。エレベーターなんか当然ない。
そして入口には看板すらない。重そうな鉄扉がまるで私を拒絶するかのように立ちふさがっている。
ほんとにここで合っているのよね……?
地上のビル案内ではちゃんとエンビルって書いてあったから大丈夫だと思うけれど、お店の前にも看板くらい出しておいて欲しい。
急に怖気づいてしまったけれど、せっかくここまできて、おめおめと帰るわけにはいかない。覚悟を決めて重厚な扉を開けた瞬間、低音が響くテクノミュージックが身体を包み込んだ。
重たく響くベース音が、深夜の静かな繁華街とはまるで別世界のような空気を作り出している。天井から吊るされた赤紫のネオンがフロアを照らし、幻想的でどこか背徳的な雰囲気がする。
カウンターの奥には、ひとりの男性が立っていた。黒いシャツからして、この店のバーテンダーと思われた。
広い肩幅と厚い胸板はシャツ越しにも分かるほど力強く、その袖口から覗く逞しい腕は、薄暗い店内の照明に照らされて滑らかな筋肉の曲線を浮かび上がらせている。
腕を動かすたびにシャツがぴったりと身体に張りつき、その下に隠された筋肉質な体躯がはっきりと伝わってくる。
整えられた黒髪。サイドは短め、トップはやや無造作に整えられていて、額をスッキリ出しているように見える。
あ、でも、頭にちょんまげがある……?
長髪なのかな。上で髪の毛を束ねていた。
瞳はシャープで鋭く、色は漆黒に近いダークブラウン。眼光が鋭く人を見抜くような鋭さがある。鼻筋は通り、顎のラインはシャープで、端整かつ力強い顔立ち。どこか威圧的な空気すら感じさせた。
しかし最も特徴的なのは――シャツの襟元から覗く刺青だ。捲られたシャツからも腕に伸びる刺青は同じ柄。
本物の刺青を見るのは初めてで、思わずドキリとしてしまう。バーテンの彼は、刺青が入っていることを隠す気もないらしい。
とにかく一目見ただけで、普通ではないと直感させる迫力があった。
その圧倒的な存在感は、エンビルという店の雰囲気そのものを支配しているようにも見える。
彼は静かな手つきでシェイカーを操りながら、入ってきた私に視線を投げかけた。もしかして彼が天魔……?
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声はテクノの低音を切り裂くようにはっきりと響いた。その目はとても冷静で、穏やかな湖のように感情が読めなかった。
「初めてだよね。注文はなににする?」
メニューを見せる代わりに、彼は私の目を静かに見つめた。その視線に不思議と圧倒される。思わず口ごもる私に、彼は私の緊張をほぐすかのように柔らかく微笑んだ。
「飲みより用件の方?」
「はい……あの、天魔さんに会いに来ました」
その瞬間、彼の目元が微かに緩んだ。「彼に……ね」
バーテンダーの声には明らかな含みがあった。彼はシェイカーをゆっくりと置き、低い声で小さく言った。「誰の紹介?」
「ええと……知人の紹介で来ました。モモンガという方に教えていただいて……」
果たして知人という立ち位置を使っても良かったのかどうかはわからない。
「モモンガの紹介なら、真剣な事情があるみたいだね」
どうやら彼はモモンガのことを知っているようだ。手元のグラスを丁寧に拭いている。長い指先が薄明かりの中で滑らかに動き、ガラスがキュッと小さな音を立てた。
「申しわけないけど、天魔は今日、来てないんだ」
「え……?」
一気に肩の力が抜けた。簡単には会えないだろうと覚悟していたつもりだったが、実際に聞かされると動揺を隠せない。
目の前の彼が天魔かと思ったのに、違ったんだ。残念……。
私の表情に気付いたのか、彼はやや声を落として言った。
「天魔は気まぐれだから。ふらりと来ては何日も姿を見せなくなる。それに、会うには彼自身が興味を持たないと難しいんだ」
「でも、どうしても天魔さんに会いたいんです! どうしたら会えますか?」
彼は私を見つめ、なにかを考えているようだった。そして小さく息を吐いた。「彼に伝えておくよ。ただ、会えるかどうか、約束はできない」
そう言いながら、小さなカードを差し出してきた。
「名前と連絡先書いて。天魔が興味を持てば、連絡させるから」
私はすぐにカードを受け取り、自分の名前と番号を書いた。カードを彼に返すと、彼はそれをポケットにしまった。
「焦らず待ってね。ただ……」彼は微妙な間を置いて続ける。「天魔は魅力的だけど、危険ということを忘れないで。覚悟を持って会ったほうがいいよ」
その言葉が胸に深く突き刺さる。モモンガの忠告と同じだ。
「覚悟はしています」私は目を逸らさずにきっぱりと伝えた。
「じゃ、せっかくだから閉店まで飲んでいってよ。そもそもどうして天魔に会わなきゃいけないことになったのか、聞かせてくれる?」
「はい」
「改めて、俺は神威(かむい)。ヨロシク」
彼が『エンビル バーテンダー 神威-KAMUI-』と黒地に銀色の文字で書かれた名刺をくれた。
「よろしくお願いします。私は沙耶です」
挨拶を交わし、成り行きで神威さんと飲むことになった。
少しでも天魔に繋がるヒントがもらえたらいいな。
コメント
1件
第2話のラスト、すごく引き込まれました。 沙耶が深夜の新宿に向かう決意の重さと、エンビルという店の空気感——神威さんの刺青や鋭い眼差し、全部が「ここから始まる」感じでドキドキしました…! 「天魔は危険」って忠告されるほど、なんだか惹かれてしまいますね💭 次が気になりすぎます。続き、大事に読ませていただきます。