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「きゃー、タマ!やめてー!こないでー!」
たまりかねた、上野が、悲鳴をあげる。さすがに、主《あるじ》の飼い犬を、足蹴にするわけにはいかない。
言葉での対応しかないが、どこまで通じるか、という問題で、やはり、相手は、子犬。通じるはずがない。
ついに、タマは、後退《あとずさ》りながら逃げる上野の、膝によじ乗り、何故か、衣の袖を、クンクンと、嗅ぎ始めた。
「タマ?そこが、匂うのね!」
言って、守恵子まで、上野の袖に鼻を近づける。
「あっ」
小さく、つぶやき、守恵子の動きが止まった。タマも、何かしらを感じとっているようで、前足を必死に動かして、上野の袖を掻いている。
「ねえ、紗奈姉様《さなねぇさま》もしかして、また?かしら?」
「あらあら、まあまあ、そうだったわ!紗奈は、いつも!」
と、追うように、コロコロと軽やかな声で、徳子が笑う。
「は、はい??な、なにが、また?なのでしょうか?それよりも、タマを!タマを!」
「はいはい、こんなに、愛らしいのに、どうして、紗奈姉様は、怖がるのでしょうねぇ」
守恵子が、クスクス笑いながら、タマを抱き上げようとするが、タマは、上野の袖にしがみつき、離れようとしない。
「ほほほ、袖の中のモノを出してしまいなさいな」
「中の、モノ、ですか?中の?」
徳子に指摘され、あーーー!と、叫ぶ上野は、袖をブンブンと、降って、中に入れていたモノを外へ出した。
床へ転がり落ちた、それ、を見つけた、タマの瞳は、キラキラ輝き、ぴょんと、飛びはね、それ、に飛び付いた。
「あー、干魚屋のじいちゃんに、干鱈《ほしだら》もらってたんだぁ……忘れてた」
おやつにしなよ、紗奈ちゃん。と、出入りの干魚屋に、もらったのだと、上野は、白状する。
女童子《めどうじ》時代からの、付き合いで、今では、息子に店を譲っているが、時たま、屋敷に顔を出すらしく、その度に、何かしら、乾きモノを貰うらしい。
懐紙にくるんで、袖の中に入れていた事を、上野は、すっかり忘れていた。
「ははは、では、匂っていたのは、干鱈だったのですね?」
全く、らしいわ、と、守満も、笑っているが、徳子は、どこか、ぼんやりとして、うっすら笑みを浮かべている。
「徳子様?」
「母上?」
「お方様?!」
皆の、呼びかけに応じているが、瞳は宙に定まり、恍惚とした面持ちになっていた。
「ねえ、武蔵野?守近様は、そろそろ、お戻りになるのかしら?あら?橘、その染め具合、良い出来だわね」
一人、口走る徳子の様子に、皆、固まった。
「どうか、落ちついて。徳子様は、軽い、幻覚をご覧になっているのです」
晴康が、言う。
「は、晴康、どうゆうことだ!」
守満が、掴みかかる勢いで、晴康に迫った。
「……おそらく、匂い。守満様、徳子様は、匂いに、敏感なのでしょうか?」
「た、確かに、母上は……、敏感というか、組香《くみこう》が、お得意で、負けなし、では、あるが……」
組香とは、いくかの香りを聞いて、その香りが何なのかをあてるもので、匂う、嗅ぐなどとは言わず、香りを「聞く」と、表現するほど、雅《みやび》で、難関な遊びなのだ。
「それと、何が……」
「守満様、匂いですよ、琵琶法師の。ほら、上野様と、ぶつかり合ったじゃないですか」