「上野様に、逢い引きと、徳子《なりこ》様が仰ったのは、初めて嗅ぐ、男物の香《こう》を、捕まえられたから……」
「……晴康《はるやす》、どういうことだ?それで、母上が、なぜ、あのような……」
徳子は、依然、遠くを望んでいる。
「……琵琶法師は、おそらく、唐下《からさ》がりの、香、を扱っていたのではないでしょうか」
「唐下《からさ》がりの!!!」
守満《もりみつ》、常春《つねはる》は、揃って息を飲む。
──唐下がりの香、と、密かに呼ばれ、都では、あるものが、蔓延していた。
始まりは、万病に効くとの触れ込みだった。
唐から特別に仕入れた、香を焚き、その煙りを吸い込むと、ありとあらゆる病が治る──。
その様な、迷い事を、皆が信じ、その、香、は、都の隅々まで広まった。
むろん、病が治る、のではない。
治った気持ちになるだけで、香、の、効き目が切れると、すぐさま、皆、新たな香を求めはじめる……。
効き目があると、信じきる民《たみ》達は、こぞって求め、その噂は、広がる一方だった。
そうして、群がる人々から、怪しげな輩が暴利を貪った。
「きっと、琵琶法師は、その一味。扱っているために、香りが、染み付いてしまったか、はたまた、自身も、適度に嗜んでいるか。どちらにしても、何らか、関係しているのは、間違いないでしょう」
「そういえば、晴康、お師匠様、いや、あの者に、会うたび、私は、どこか、気分が、高揚してね。奏でる琵琶の音の美しさからだと、思いこんでいたのだが……」
悔しげに、守満が言った。
「守満様、その気分が高揚するというのは、香の、せいとは言えないかも知れませんよ。抱き合うように、転がった、上野様は、なんともなかったのですから。ただ、上野様は、なぜか、術も、効きにくい。香りにも、鈍感なのかもしれませんが……」
「え?!ちょっと、抱き合うって!!」
上野が、すかさず、晴康に噛みついた。
逢い引きしていた、そして、男と抱き合った、ついでに、香りに鈍感と、有らぬ事ばかり言われては、いくら、徳子の大事と言えども、さすがに、腹に据えかねるものがある。
「きやっ!やめて!抱き合っただなんて、玉里《たまさと》!私、恥ずかしい!」
徳子が、叫んだ。それも、淑女ぜんとではなく、まるで、守恵子の様に、初々しい声を出して。
「玉里?」
晴康が、首を傾げる。
「……もしかして、徳子様がお輿入れする前の、あちらの御屋敷の女房では?確か、その様な名のお方が、ご挨拶に、来られた記憶があるのですけど……」
上野は、兄を見る。
「確か、そうだ。お方様付きの女房だった方で……お里の御屋敷から身を引かれると、ご挨拶に来られたはず」
「ですよね?兄様」
「晴康!母上は、どうなされたんだ!」
動揺しきる守満に、守恵子が言った。
「兄上、母上に、事情をお聞きしてみましょう。私どもでは、昔の事は、わかりませんもの」
「守恵子、事情をお聞きすると、言っても!」
守満の視線の先には、北の方としての徳子ではなく、乙女の様な仕草で、顔を隠す、姫君がいた。
「なる程、やはり、姫君のことは、姫君にしか、わからない……と、言うことですか。守満様?守恵子様の言うように、ご本人から、お聞き致しましょう」
言って、晴康は、徳子の側へ寄り添った。