まったく、と、岩崎は悪態をついた。
どうやら、受付でも、ひと悶着あったようだ。
「さっさと、この医院から出た方がいい。ろくな所じゃない!」
怒鳴り散らす岩崎の勢いに、月子親子は、小さくなる。
岩崎が、激怒する原因を、自分達も少なくとも、作ってしまっているのだ。
岩崎は、人当たり良く、もっともな事を月子親子へ言ってはいるが、そもそも、出会ったばかりの赤の他人……。
何から何まで、しかも、金銭的な事を頼りきっている。果たして、本当に良いのだろうか。月子に、迷いが現れていた。
ああ、と、岩崎は言って、何もご心配なく。と、怒鳴った詫びをいれる事で、月子の母へ念を押している。
「本宅から、車を呼びました。病院の手配ができるまで、岩崎の屋敷でお休みください」
「あ、あの、男爵家で、ということですか?」
岩崎の口振りから、神田旭町のあの家、という感じではないと月子は思い、尋ねた。
「うん、あいにく、私の家は、あの通り小さく、狭い。たってき、と言っても、御母上に不憫をかけるだろうからなぁ。部屋はいくらでもある、使用人もいる、本宅の方が、不自由はしないだろう。君も、御母上と一緒に滞在すれば、丸くおさまるわけだし」
どうも、岩崎は、月子との同居に、躊躇しているようだった。
できれば、岩崎男爵家に行って欲しいと、母親にかこつけて、言い逃れしているように見える。
確かに、男女が一つ屋根の下で暮らすのは、不自然であるし、月子にも、気まずさがあった。
ただ……。
佐紀子の事が思い起こされる。西条家、いや、佐紀子は、月子親子を籍から抜きたいと願っている。
母は、すでに、岡崎に戻った。
おそらく、義父と離縁したことにして、西条の籍から母を追い出したのだろう。
では、月子は?
結婚して、相手方の籍へ入り、西条の籍から抜けるという段取りを組んでいるはず。
単に、岩崎男爵家に世話になる、では、月子は、西条の人間のまま。それでは、何かしら西条家といさかいが起こるだろう。
だからといって……。
まさか、岩崎に、結婚してくれ、とも言えない。
そこへ、
「あの、お気持ちは有りがたいのですが、娘は、岩崎様、あなた様の所に置いてもらえませんでしょうか?」
小さくではあるが、母が、しっかりとした口調で言った。
「娘は、見合いということで、あなた様にお会いしております。それに、たまたま私の事が重なった次第……。色々とお世話してくださるのは、大変有りがたいのですが……あなた様の所にいられないとなると、娘の立場が……。ええ、勝手な事を言っているのは承知の上です。ただ……お恥ずかしい事に、こちらにも、事情が……ありまして……」
「か、母さん!」
母は、コクンとうなずいた。月子への、西条家からの仕打ちとも言うべき、置かれている立場が、わかっていると言いたげに。
「……まあ、確かに、一緒にいないと、私が見合いを断った、ということになる。そうなると、お嬢さんには、不名誉な事になりますね。しかし……私は、とてもじゃないが、結婚できる立場ではないのです。一度は、本宅から、勘当された身、そして、仕事も、教鞭を取っているとはいえ、それは、非常勤で、週三日。それでは、家族を養う事など無理なのです……」
「……だから、岩崎様は、独りでおられると……」
月子の母の問いに、岩崎は、ぴくりと肩を揺らした。まるで、何か、もっと肝心な理由を隠すかのような仕草と共に、岩崎は、押し黙る。
その様子に、野口のおばが、言っていた、訳ありという言葉を月子は思い出した。