「お邪魔したね。じゃあがんばってね」
なんてお言葉を残して悠々と去っていく課長だった。
課長のスラリとした後姿をうっとりと見送っていた先輩たちだけど、
「あー、どうしよ…」
空気はがらりと超ローテンションに変わった。
「あーあ軽々しく応じちゃって」
「だってあの遊佐課長が食べたいって言うんだもん、仕方ないでしょ!」
「これはもう、各自持参のパターンしかない?そもそもさ、予算少ないのに海鮮なんてどれくらいそろえられるの?」
「切り身よりまるまる一本買う方が安いってきくよ?」
「えーあたし捌き方とかしらないよー」
「生ものさわれなーい」
ため息ばかりの先輩たち。
苛立ちと投げやりが混じりだした空気は、次第にするどく尖って一人に向けられる…。
「じゃあもう準備は案出した三森に全部やってもらったら」
ついにトドメの一突きを与えたのは田中さんだった。
「わ、わたし一人で?」
「当然でしょ?あんたが言い出さなきゃこんなことにならなかったのよ。責任とって一人でやりなさいよ」
「そんな…」
「当日は一応手伝ってやるからさ、鍋の味も材料の調達も準備も、ぜーんぶあんたがやってよね」
「それはちょっと…」
「きついんじゃない…」
さすがに他の先輩たちも顔を見合わせるけど、
「なに?文句ある?」
一喝されれば誰も口ごたえできない。
「大丈夫よ。最近三森残業もよくこなしてがんばってるみたいだもの。できるわよ」
皮肉のこもった言葉を最後に残すと、もうこの打ち合わせは終了、とのばかりに田中さんはミーティングルームから出て行った。
とりまきの先輩たちも、気まずそうな表情を浮かべながらも続いて出て行く。
一人残されたわたしは、出しっぱなしの机や椅子ををのろのろとなおしながらため息を零した。
どうして…。
どうしてこんなにひどいことできるんだろう…。
いつものことだけど…でも今回はひど過ぎるよ…。
田中さんはわたしが嫌いなんだ。
だから理不尽に仕事を押し付けて、やめさせたいんだ。
なのに課長のおかげでわたしが最近乗り切るようになってきたからますます面白くなくて、それで仕打ちが激化しているんだ…。
ツンと鼻が痛む。
けど唇を引き締めて耐える。
負けないぞ。
でも…本当にわたし独りで、どうすればいいんだろう…。
「ひどいもんね。田中の横暴は相変わらず」
不意に声がして振り向くと、入口に女の人が立っていた。
※
パンツスーツがよく似合うスタイルとみなぎる自身に溢れた女性は、社内でも数えるほどしかいない。
営業部の日野亜依子(ひのあいこ)さんだ。
社内のスターの登場に、わたしは思わず姿勢を正した。
亜依子さんを前にすると思わず身だしなみを整えたくなるのは、わたしのような一般職社員なら誰でもそうだ。
亜依子さんは実は社長の実娘さんなんだけれど、それを笠に着ない努力家で、敏腕ひしめく営業部の中でも高成績を維持し続けているキャリアウーマンだ。
それでいて気さくで人当たりが良く、上からも下からも信頼を集めているので、25歳という若さにもかかわらず次期課長の最有力候補としてウワサされていた。
「ごめんね、外で田中の声が聞こえたものだから、つい盗み聞きしちゃったの。あなた、今回の親睦会準備、独りでなんて大丈夫?」
「ええ……まぁたぶん…」
「まったく、あの人の横暴っぷりには目が余るわね。営業事務への異動願を何年も無視されてるから、すっかりやさぐれちゃったのよね。原因は自分のその性格だってのに、どうして気づかないのかしらね」
亜依子さんと田中さんが同期で同じ営業部だったのは、みんなよく知る事実だ。
順調にキャリアを築いていった亜依子さんとは逆に思うように成果を伸ばせず総務部へ異動となった田中さん。
その屈辱のはけ口のために、ひどい後輩いじめをするようになったんだ、というのがもっぱらのウワサだった。
「あなたへの田中の八つ当たりは他部署でもけっこう知られてるのよ。上のおっさんたちは面倒臭がって目をつぶってるけど、うちの部長はね、追い出したのは自分である手前、総務部の内情は気にしてるのよね」
「そう、なんですか…」
知らなかった。
みんな気づいてもいないと思っていたから。
服部部長、そんなこと考えてたんだな。
「表だって助けてはあげられないけど、小さなことでも力になれるかもしれないから、なにかあったらわたしに相談してね。というか、今の親睦会のこと、うちの営業事務の子たちに協力させよっか?」
「え、そんな!」
多忙の営業部の人たちにご迷惑はかけられない。
恐縮するわたしに、亜依子さんはにっこりと女優さんみたいに素敵な笑顔を浮かべた。
「遠慮しないで!だってあなたのさっきの案、すごいいいと思うからぜひ成功してほしいし」
「ほんと…ですか?」
「ええ。元営業の田中より、ずっと冴えてるわ」
さらりと皮肉を言って、ウインクを投げてくれる亜依子さん。
言葉が出なかった。
たとえお世辞でも、わたしなんかが考えた案を社のスターの亜依子さんに褒めてもらえるなんて、うれしくって。
「詳細がまとまって人手が必要になったらなんでも言ってちょうだい。買物なりアシスタントなり、営業部からいくらでも回すから」
「ありがとうございます…」
深く頭を下げたわたしに、亜依子さんは穏やかだけど頼もしさを感じさせる笑顔を向けてくれた。
「負けないでね。応援してるから」
そして颯爽とヒールを鳴らしてミーティングルームから出て行った。
「負けないでね」か。
「がんばってね」よりも、ずっと力づけてくれる言葉。
こうやって支えてくれる人がいると知っただけでも、乗り超える力がわいてくる。
どうすればいいか真っ白だった頭が、すこしずつ奮い立って行く。
よし。まずは鍋の味を決めて、必要な食材と量を考えて…。同時に魚介類が安いお店をリサーチして…。
考えてみれば、お料理はわたしの得意分野だ。
難しいことなんてない。
オフィスに戻ってプランを練らなきゃ、と廊下を歩き始めたわたしの心は、すこしワクワクし始めていた。
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