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「……ニャァ」
「——⁈」
か細く、酷く弱った声が聞こえた気がした。視線をモヤのまだ濃い方に慌てて向けるが、やっぱりそこに何かが居る様子は無い。誰も、居ないと思う。召喚魔法は失敗した…… はず、だ。
——だが、確認は大事だな、うん。
一度頷き、眉をひそめながらゆっくりとモヤの中へと進む。徐々にそれらは晴れていき、魔法陣が消え去った後の床が姿を現し始めた。
再び、「ニャァァ…… 」とも「ミャァ…… 」とも取れる小さな掠れ声が聞こえ、慌ててそちらに顔を向けると、やっと声の主を目視出来た。
「…… 猫だ」
そこには、真っ黒な姿をした、痩せ細っていて発育不良としか思えないくらい小さな子猫が震えながら横たわっていた。意識はあるのか、こちらに何かを訴えるように瞳を力無く向けてくる。
潤んだような黒い瞳と目が合い、過剰に小さな身体が、庇護欲を無条件に刺激する。
ギュッと心臓を鷲掴みにされるような衝撃を受けた瞬間、僕はその場に駆け寄り、床に膝をついた。そして子猫を片手でそっと抱き上げて、腰に付けていたポーチから出したハンカチでその子を包む。
「可愛いな、お前は」
自分の顔が無表情を保っていられない。存在も忘れそうだった表情筋が勝手に動く。同時に、失いかけていた感情が一気に命を吹き返し、再び芽吹くのを感じる。
「名前はあるのか?言葉が通じる様に術式は組んでいたけど、そもそもお前…… 言葉なんて覚えてそうにないよなぁ」
話し掛けても返ってくる音には意味がない。きっとこの子は産まれたばかりで、言葉をまだ理解していないのだろう。そもそも異世界の生き物が言葉を操っているのかもわからなかったが、僕はそう結論付けた。
「…… ニャァ」とだけ鳴く声が、何となく、『死にたく無いから助けてくれ』と訴えている気がする。
「大丈夫、安心していい、死なせたりはしないからな。——っても、わからないか」
片方の手の中に収まってしまうくらい小さな身体に右手をかざし、回復魔法を流し込む。簡単な魔法なら呪文など無くとも容易く使える。召喚魔法を使ったばかりではあったが、これくらいは全く支障は無かった。
プルプルと震えていた身体が、徐々に温かさを増して、震えが止まった。 途端、緊張の糸が切れたのか、はたまた安心したのか。ゆるゆると子猫が瞼を閉じる。僕の指に二、三度頬擦りしたと思ったら、子猫は手の中でスヤスヤと眠り始めた。
死にそうだった顔が一転、穏やかな空気を纏い、その様子がたまらなく可愛い。動物などを前にして、『可愛過ぎて食べてしまいたい』と言う奴の気持ちが初めて深く理解出来た。
噓みたいなくらい文句無しに自分の求めていた条件に一致したその存在を前にして、召喚魔法はきちんと成功したのだという事実がジワジワとこの身に染みこんでいく。
長くて力の入っていない尻尾を軽く持ち上げると、子猫は雌である事がわかった。
弱々しくて誰かが守らないと死んでしまうであろう姿に向かって、しっかりと頷く。 そして僕は、決意するように呟いた。
「決めた、僕は一生君を守ってあげるよ。君の事は永遠に離さないからね」
眠る子猫の小さ過ぎる頭にそっと顔を近づけ、額にキスをする。僕の気分はもう忠誠の誓いを立てる騎士のようだった。唇が触れる感触に少し身体がピクッと動いたが、子猫が目を覚ますことはなかった。どうやらかなり深い眠りの中にいる様だ。
ニマァと笑ってしまうのが止められない。
「すぐに部屋を用意させるからな。安心して眠るといいよ」
頭を指先でそっと撫でる。また少し動いたが、やっぱり目を覚ますことはない。酷く衰弱していたし、かなり疲れてもいるのだろう。
「——誰か、そこに控えているか?」
少し離れたドアに向かい声をかける。
「今伺います」
返事があり、ドアを開けて声の主が室内へ入って来る。シルバーグレーの長い髪を後ろにまとめ、白地に銀糸の刺繍が入った神官服に身を包んだセナが、恭しく頭を下げた。
「お呼びでしょうか、カイル様」
親程に年上の外見を持つセナに様付けで呼ばれると、どうしても背中に少しくすぐったさを感じる事がある。その為、最近では滅多に自分から彼に声を掛けたりはしないのだが、今はそうも言ってられない。
セナは僕の方から声を掛けた事を喜んでくれているのか、口元が少し綻んでいた。
「この子の召喚に成功したんだ。事前に用意してあった部屋では人間用で使い難いだろうから、あの部屋をこの子に合った仕様に変えて欲しい」
両の手で抱え直し、セナの元まで行って彼に子猫を見せる。
「子猫、ですか。…… 可愛いですね」
動物が好きなのか、子猫を覗き込んだセナは嬉しそうに笑った。
最近あまり表情の変化を見せなかった彼が笑顔を浮かべた事に少し驚いたが、この子を前にして破顔しない奴などいるはずがないなと誇らしい気持ちになる。自分が褒められた時の様な不思議な気持ちに、自然と顔が綻んだ。
するとそんな僕の顔を見て、今度はセナが驚いた顔をし、再び優しく微笑んだ。
「召喚魔法のご成功、心より嬉しく思います。…… お帰りなさいませ、カイル様」
胸に手を当て、先程よりも深々とセナが僕に向かって頭を下げた。
『僕は何処にも出掛けていなかったのに、セナは何を言っているんだろう?』と疑問に思ったが、直ぐに彼の意図する言葉の意味がわかった。彼は、僕の心が再び息を吹き返した事に対して『お帰りなさい』と言ってくれたのだ。
「…… あぁ、そうだね。ただいま、セナ」
笑顔で返すと、セナの瞳が潤み、一筋の涙が零れ落ちる。こんなに心配されていたなんて、思いもしなかった。これからはくだらない理由で彼を避ける事は止めよう。もっとセナを頼ろうと、僕は心に誓った。