テラーノベル
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iw視点
彼は、なぜか泣いていた。あの夜もいつも通りに身体を重ねていて、違ったことといえば俺が酒に溺れていたことくらいで、彼は普段と何一つ変わらない様子だったはず。突然腰の動きが焦るように速くなっていったのは覚えているけれど、明確なきっかけが今ひとつ思い当たらない。
こんな夜は初めてだった。彼は俺に八つ当たりをするかのように遠慮なしに腰を掴んで熱を乱暴に打ち付けていた。しかし、そんな行為とは裏腹に彼は酷く傷付いたような、寂しさが限界に達したような表情をして、冷たい涙を流していた。
鏡に写った自分の姿に、嫌気が差す。自分の生き様がどうにも拙くて、思わず目を逸らしたくなるばかりだ。彼の表情を見て酷く胸が痛んだ感覚が今も鮮明に残っている。
彼と数ヶ月の間夜を共にして、分かったことがある。彼は清くて優しくて誠実で、真っ当な人間だった。正しい人生を、正しい道を歩んでいる人。俺なんかが関わってはいけない人。シャワーで流すことの出来なかった重苦しい感情が、徐々に首を絞めていく。好きな人なのに、泣かせてしまった。
じっと爪先を睨みつける沈黙がじりじりと脳を支配する。自責から逃れるようにふっと窓の外側へ目を向けると、少し欠けた白い月が空から俺を見下ろしていた。見ないでくれ、咄嗟にそう思って俺は目を窓から背けるようにして目を瞑った。瞼の裏には、あたたかな手で俺の髪を優しく撫でる彼がいる。白く儚く美しい月が、一瞬彼のように見えた。会いたい、でも、もう会えない、これ以上関わってはいけない。きっとこれ以上を求めてしまえば、彼の人生を壊してしまうから。
左手に握っていた箒がやけに重たくて、月へ触れてしまった罰を与えられているようだった。
◇
シャワーの音が狭い浴室に木霊する。冷たくも温かなそれはあの日の情景を彷彿とさせた。振り払うように何度瞬きをしても、それは消えてくれない。自分のものでない白濁がぬるく内腿を伝って、排水口へと流れて消えていくのを意味もなくじっと見つめた。
彼の熱はいつも、数ミリの隔て越しに欲を吐き出していた。湯気が立って靄がかった視界が夢現として、彼に抱かれに行くために後孔を解していた日々のことをふと思い出してしまった。
突然、背後で浴室の扉が開く音がする。そうして背中に他人の肌がピタリと触れた。背後から抱きしめるように回された腕は俺の濡れた腹や胸元をゆっくりと撫でていく。こうして彼にも、触れてもらえたなら。
「テルくん。なにぼーっとしてんの」
「……別に、なにも」
「もー。最近ずっとそうじゃん。ヤッてるときもなんか上の空で、寂しいんだけど」
「それは、すみません」
男に指摘されたそれは今に始まったことではない。彼と出会ってから、何をしていても誰に抱かれていても、彼のことを思い出しては彼を求めるようになってしまったのだ。あのバーへ顔を出さなくなってからは余計に、彼以外では満たされなくなってしまった身体が乾き枯れ果てて、必死に彼を求めた。
これ以上深堀りされると感情に歯止めが効かなくなると思い、俺は男の腕の中からするりと抜け出して真っ白なタオルで身体を拭った。しかし男は珍しく食い下がってきた。
「なぁ、考え事?仕事のこと?それとも恋?」
「……違いますよ」
「分かりやすっ。そうか、恋、しちゃったのか」
「うるさいっ!」
感情が沸騰して抑えきれなくなり、俺は気が付いた頃には大声を上げていた。謝ろうと急いで顔を上げると男は驚く素振りもなく、まるで子供を憐れむように俺を見つめていた。その瞳には雲がかかっていて、俺と男が同胞であることが身に染みて理解った。男はペタリと音を立てながら浴室からあがってきて、優しく包み込むように俺を抱きしめた。先程よりも温かく感じる肌が、どうしようもなく残酷に感じた。
「苦しいよなぁ、辛いよな」
「……どうして、どうしてこんな」
「ほんと、なんでなんだろうな。神様の悪戯かもな」
宥めるように優しく髪を撫でられて、栓をしていたはずの感情が一気に流れ出てきた。悔しさと哀しみと劣等感と苛立ち。それ以上に色々な感情が混ざりきった涙が、熱く頬を伝っていく。あぁ、あの日の彼と同じ涙だ。辛くて、胸が痛くて仕方がない。ぐしゃぐしゃになった頭の中に彼の優しい声が波紋を広げるように響く。
彼と出会ったあの日は、夕方から酷い雨が降っていた。
その日の俺は、昔から変わることのない世間に今更また嫌気が差して、子供じみた反抗心を立ち上らせては、それを掻き消すように酒を飲んでいた。しかし、なぜかその日は気持ちよく酔うことが出来なくて、全てを諦めたように淡い酒気を纏ったまま俺は店を出た。烏も鳴かぬ鈍色の空を見上げて、断続的に顔に当たる水滴に目を瞑る。傘は持っていなかった。持っていたとしても、さしていたかどうかは分からない。
自宅の方向に背を向けて俺は意味もなく冷たい世界を歩いた。雨粒で半透明になった視界は、馴染みのない道を捉えていく。理由はないけれど、家に帰りたくなかった。誰が待っているわけでもないのに、いや、誰も待っていないのが嫌だったのかもしれない。俺自身のことなのに、曖昧なままで分からない。
やがて日も暮れて街灯が存在感を放ち始めても雨は止むことなく、この世界を平等に潤していた。大きめの建物で小綺麗な景観をしているバーから、一組のカップルが出てくる。やがて、一つの傘をさして歩いていく健やかで正しい人々を目の当たりにして、俺は人気がなく街灯の光すら届かないような暗く細い路地裏に、身を隠すように足を進めて濡れたアスファルトに座り込んだ。暗闇が俺の輪郭を溶かしていく。このまま雨に打たれて削れて、消えてなくなってしまいたい。
「なんで、こんな人生なんだよ……」
弱々しく吐き出した本音が雨に紛れて消えていく。雨のように流れ出ていく涙は拭っても拭っても溢れてきて、何もかもに疲れてしまった俺は諦めて外壁に背中を預けた。人の話し声も、喧騒も聞こえない。このまま、誰にも見つからず消えてしまえれば。
何かが肌に触れた感覚がして、俺は目を覚ました。警察なんかが、こんなところに来るとは思えない。じゃあ隣のバーの店員が「邪魔だ」と言いにきたのか。気だるい瞼を開こうとしたタイミングで、想像していたよりも若い男の焦燥したような声が聞こえてきて、それと同時に俺の身体に降り注いでいた雨が突然止んだ。え、なに。そう思って目を開くと、道端で雨に打たれたまま倒れている不審な男に対する距離とは思えない位置に男の顔があって内心驚いたものの、表情を動かす気力もなくて俺はただじっと男を見つめた。肌綺麗だな、白いし陶器みたい。ってか睫毛長すぎ。あれ、この人、どっかで会ったことあるな。
「え、え、あの、大丈夫ですか?!っ生きてますか」
「…………生きてる」
そう一言で返事をするのが精一杯なほどに、気力はもう残っていなかった。突然雨がやんだと思ったのは、男が自分が濡れることも気にせず俺に傘を傾けていたからだと気付いた。絵に描いたような善人な男を前にして、俺は思わず目を逸らした。生き様が綺麗な人間ほど、顔を合わせたくない。俺の汚れを移してしまいたくないから。
それなのに、漂った沈黙は心地よくて俺と目の前の男を柔らかく包んでいった。この男と以前どこで会ったかを思い出したものの、そんな記憶を上書きするように不思議な感覚が身体を支配した。つながりたい。そう、脈打つ心が言っている。ずっと前から深い関係だったような、それなのにやっと出会えたような、言葉では言い表せない感覚が神経を染めていく。そうして気がつけば、名前も知らない男に手を伸ばしていた。そのときに何を求めていたのか、今でも分かっていない。
弱々しく男へ伸ばした手はやがて、男のあたたかな頬に辿り着く。知らぬ男に輪郭に手を沿わされても避けない、というのはあまりにも不自然であるものの、俺はこの男は必ず避けないと核心めいた何かを感じていた。遅れて酔いがまわりはじめたのか、おかしな感覚ばかりがする。そんな麻痺した思考は正しい道へ戻ることが出来ず、初対面同様の男にキスをされたとしても、もちろん穏やかなままだった。だんだんと絡み合っていく舌が粘膜を溶かして思考を奪っていく。どうしよう、離せない。
あの日からもう既に、俺は彼に奪われていた。
どれだけ俺が泣いていようと、彼が駆けつけてきて優しく抱きしめてくれることなんてない。彼とは異なる体温に抱きしめられながら、俺はひたすらに涙を流した。名前もわからない、彼の名を呼んで。
「テルくん、苦しいよな」
「もう、どうすればいいか、わかんない」
その言葉が、今の俺の全てだった。会いたい、でもこれ以上触れてしまえば彼をきっと傷つけてしまう。この世界で、男が好きだということの異常さを彼はまだ理解できていない。
「好きなのに、なんで……」
俺と彼が所謂両想いだということには、もうとっくに気が付いていた。向けられるあたたかで優しい声に、俺の身体に染み付いている他の男の存在が香ったときの暗い瞳。身体を重ねた後は必ず俺を風呂に入れて丁寧に洗って、ベッドに戻ってからは優しくマッサージをしてくれる。中出しがしたいなんて冗談でも言わなかったし、いつも俺のことを気にかけてはふわりと花のような微笑みを浮かべていた。
それらが愛の証拠になるわけではないものの、確証めいた勘の肉付けとしてそれらは俺の記憶に色濃く残っている。
男に髪を撫でられて、いつの間にか泣き止んでいた顔を上げた。俺は今、どこへ向かえばいいですかと、問いかけるように男の瞳をじっと見つめた。きっと、誰も答えなんて知らないけれど、俺と同じ道を歩んでいるこの男になら分かることがあるかも知れないと思ってしまったのだ。すると男は困ったように微笑んで言った。
「ごめんね、俺にも正解はわからない」
「そうですよね」
「うん。……君がちゃんと区切りをつけられるような、心残りがなくなるような何かをするのが一番かと思うけど」
「……区切り」
俺が知っている彼のことは住所と職業と職場だけで、名前や年齢は知らない。そして、彼が知っている俺のことは多分何もない。だから俺から彼に近づかない限り、彼と出会うことはないのだ。完全にお別れをしようと思えば、簡単にできる。それだけ頼りなく脆い関係性だったということを改めて自覚して、空虚で重たい感情が身体にのしかかった。
心残り。そう言われて思い出したのは、彼の柔らかな声だった。もう一度、もう一度だけ彼に会いたい。それがたとえ、別れであろうと。
「……俺、行ってきてもいいですか」
「もちろん、行っておいで。いつでも、戻ってきていいからね」
そう心に決めてからは速かった。部屋の隅に置いていた衣服を纏って荷物をまとめて男の家を出ると、真っ黒な空からは昼から続いて雨が降り注いでいた。傘立てから傘を抜き取って、早足で目的地まで歩いていく。急いで付けたせいで、いつもより幾分かきつく手首を締めている腕時計で時刻を確認すると、バーの閉店時間が迫っていた。はやく、はやく行かないと。バーの外では駄目だと理性が叫んでいる。でもきっと、間に合う。すぐに終わるだろう。
望まないお別れなんて、一杯で十分なのだから。
コメント
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あぁぁ~、、💜💛、、😭😭 続きが楽しみです😭😭