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夕方。
営業の人が外回りから帰って来ていた。
直帰する人が多かったけど、最近は忙しいので帰社する人が多い。
報告を受けるわたしも、資料をまとめるために残ることが多かった。
けど今日は、日中の仕事の処理が終わらないための残業だった。
今日一日うわのそらで、しばらくしていなかったミスまでやってしまった…。
朝の田中さんの言葉が頭から離れなかった。
わたしやっぱり、課長のことを好きになっていた。
田中さんの言葉はわたしにそんな残酷な自覚をあたえ、そして同時にその想いがけして叶わないのだと知らしめた。
亜依子さんが結婚。相手は社の未来を担う人…。
課長しかうかばない。
どこから出たのかもわからない根拠のないウワサだ。
…でも、そうやってふっきれないのは、やっぱり課長の部屋で見たポーチのせいだ。
あれが亜依子さんのだって決まったわけじゃない。
けど…言い知れぬ不安が、わたしを追い込んでいた。
「はぁ…」
今日は課長には「どうしてもオフィスでやらないといけない仕事があって」と嘘を言った。
渋ってなかなか許してもらえなかったけど、どうにか部屋に行くのは免じてもらった。
今日はだらだら残業になりそうだ。
一服がてら、コーヒーでも飲もうかな。
そう思って、自販機コーナーに行った。
「三森さん」
すると、同じ営業部の男性が話しかけてきた。
たしかひとつ年上の方で富田さんと言った。
明るい性格の人で亜依子さんも期待している人だ。
やさしくて親しみやすくて、異動して間もない頃、いろいろ助けてくれた。
「三森さん、なんか今日はうわのそらだね。疲れ溜まってる?」
「え、あ、そうですか」
しまった気づかれてたか…。
いけないいけない。公私は分けないとね…。
「異動して間もないのに一生懸命がんばってるみたいだから、無理しないでね」
「はい…ありがとうございます」
ぐぅ
となったのはお腹の音。
やだ、わたし…かな。
「ご、ごめん。ちょっと腹減ってて」
けど、照れ笑いを浮かべたのは富田さんだった。
わたしもつられて笑う。
「ふふふ、お腹すきますよね。この時間が特に」
「んー。今日の昼は淋しくコンビニパン一個だったから余計にねー」
「それだけじゃ午後もたなくないですか?大変ですよね、営業の方って。あちこち飛び回ってお昼もきちんととれなくて」
「まぁね。たのしいけど。でも食生活はたしかに偏っちゃうかなー。俺一人暮らしだし、弁当作ってくれるカノジョもいないし」
「そうなんですか?」
「そうなんだよー」
しくしく、と泣きまねをするのが面白くて、思わず吹き出してしまう。
「富田さんって明るくてたのしいのに意外ですね?」
「ほんと?俺そんな風に見えてた?」
「ええ」
よっし!と富田さんはガッツポーズを取った。
ん?どうしてガッツポーズ?
と訝しむわたしに富田さんはちょっと近づいて、回りを気にするように小声で訊いた。
「ね、表ではちがうことになってるけどさ、あの鍋パーティの企画、準備って、全部キミがやったんだろ?」
「え?」
「表向きは総務部でってなってるけど、あの田中集団があんな気の利いた企画考えて美味しい料理なんて作れるわけないもんな。できるとしたらキミくらいでしょ?みんな内心わかってるんだよ?」
「え、ちが…わたしだけじゃないですよ」
「いいなぁ、そういう謙虚なところもー。ほんと三森さんって理想のお嫁さんってかんじだよね」
「お嫁、さん??」
「三森さんって付き合ってる人いるの?」
「え…?」
付き合ってる人…。
一瞬うかんだのは、課長の顔。
ううん、課長は彼氏じゃない…。
「いません…けど」
「マジで?」
よっしゃ!と富田さんはさっき以上におっきなガッツポーズをした。
「じゃ、じゃあもしよかったらさ、今日これから俺とご飯いかない?」
え…?
課長にいつも天然ボケって笑われるわたしにだってわかる。これって…そう言うお誘いだよね?
「実は俺ずっと三森さんのこといいなって思ってたんだよ。…でもすげーライバル多いから」
ライバル?
なにを言ってるんだろう?
だんだん富田さんの言っていることが理解できなくなってきた。
とりあえず…
今はお付き合いすることも考慮して、ご飯のお誘いに答えなきゃ、だよね…。
課長が好き。
でも、叶わない恋なんだ…。
それならいっそ、新しい恋に向かった方が…。
「い、嫌だったらいいんだよ!急に誘ってびっくりだよね、迷惑だよね」
「いえ、迷惑だなんて…」
「じゃ…」
富田さんの顔に広がった笑顔にほだされる。
課長とはちがうタイプの男の人。
キャラメル色の瞳でも王子様な雰囲気でもないけれど、だからこそ気さくで親しみを感じる。
課長のことは忘れるべきなのかな…。
前に進んだ方が、いいのかな…。
「三森」
そこに、ぴしゃりと冷やかな声が聞こえた。
振り向いたわたしたちはおどろき、富田さんは文字通り恐縮して縮こまった。
遊佐課長が立っていた。
「か、課長、おつかれさまですっ」
富田さんにとっても、課長は伝説的な存在だ。
深々と頭を下げるけど、課長は見向きもせずわたしに近寄ると、さっきの冷やかな声で続けた。
「三森。キミは残れ。残業だ」
「え、でも」
「飯食いに行く余裕があるなら、俺の仕事も引き受けられるだろ」
「…」
「返事は?俺の命令がきけないのか?」
「じゃ俺も手つだ」
「おまえは帰れ、富田。付き合い残業は禁止のはずだろ」
「あ、はい…」
課長の様子は有無を言わせないものがあった。
申し訳なさそうな表情を浮かべると、富田さんは逃げるように出て行った。
「課長…これには」
「来い」
強く手を引かれ、わたしは自販機コーナーを抜けた。
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