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スピリタスは、迫り来る敵軍を見据えたまま、軍配を左へ振った。
その瞬間――。
ドン! ドン! ドン!
銅鑼が早鐘のように戦場へ響き渡った。
「第二陣、右へ!」
「第三陣、左へ!」
命令は瞬く間に全軍へ伝わった。
中央に道を開けていた第二陣、第三陣が、一斉に動き出す。
第二陣は右へ。
第三陣は左へ。
数千の兵が、まるで一つの生き物のように横へ流れていく。
それを見届けたスピリタスは、静かに呟いた。
「復讐に取り憑かれた魔人よ」
その視線の先。
鋒矢となって突き進むバルカ軍が、グラン軍の中央深くへ食い込んでいた。
「己が放った呪いで――」
スピリタスは軍配を握り締める。
「潔く死ぬがよい」
左右へ展開した第二陣、第三陣が、一斉に反転した。
横陣。
長大な二本の戦列が、鋒矢の左右へ襲いかかる。
突き進むことだけを目的とした鋒矢にとって、その側面はあまりにも脆い。
槍が突き出された。
盾が押し寄せた。
先頭が倒れ、続く兵が折り重なる。
それでも後方から押し寄せる兵は止まれない。
前へ進もうとする力そのものが、
左右から突き刺される刃となって自軍を圧迫していく。
そして――。
一糸乱れぬ横陣は、鋒矢の側面を突き殺しながら、さらに外へ、
さらに後方へと伸びていった。
右から。
左から。
ゆっくりと。
だが確実に。
バルカ軍そのものを包み込んでいく。
かつてカンナルで、グラン軍十万を呑み込んだ包囲陣。
その悪夢が今――。
形を変え、バルカ自身へと襲いかかろうとしていた。
敵陣が、左右へ広がっていく。
バルカは、その光景を見ていた。
第二陣が右へ。
第三陣が左へ。
乱れているのではない。
逃げているのでもない。
恐ろしいほど整然と、横陣を広げている。
そして――その長大な戦列が、こちらの鋒矢を左右から削り始めた。
バルカの目が見開かれた。
「そんなことができるのか!」
思わず絶叫していた。
戦いの最中に。
敵を前にして。
バルカが驚愕の声を上げるなど、これまで一度としてなかった。
「いや……」
すぐに首を振る。
まだだ。
まだ終わってはいない。
鋒矢の先端は、敵軍中央へ深く食い込んでいる。
あと少し。
あと少しで――。
バルカは正面を睨みつけた。
その向こうには、敵の本陣が見えている。
そして、その中央。
グランの旗の下に、一人の男がいる。
スピリタス。
「まだ中央は突破できぬのか!」
返事を待たず、バルカは剣を抜いた。
「行け! 行けい!」
前方を指す。
「今ぞ!」
左右から兵が削られていく。
後方では、広がった敵の横陣が包囲を完成させようとしている。
だが、そんなものはどうでもいい。
敵将は――。
あの男は――。
もう目の前なのだ。
「敵将は目の前だ!」
バルカの絶叫が戦場を駆け抜けた。
「スピリタスを討て!」
もはや戦術ではなかった。
包囲を解くためでもない。
軍を救うためでもない。
ただ一点。
スピリタスの首。
それさえ取れば勝てる。
それさえ取れば――すべてがひっくり返る。
そう信じるように、バルカは残された兵を前へ、前へと押し込んでいった。
「皮肉なものだ」
スピリタスは、なおも中央へ突き進んでくる敵軍を見つめながら呟いた。
「カンナルでも、我が軍は前進に希望を見出そうとした」
包囲されている。
左右から削られている。
それでも前へ進めば、敵の中央を突き破れる。
そこにしか、希望はない。
だから進んだ。
そして――死んだ。
「だが、バルカよ」
スピリタスの視線が、鋒矢の奥にいる男を捉える。
「お前自身は、自軍の兵を信じているか?」
もちろん、答えなど聞こえるはずもない。
それでもスピリタスは問いかけた。
「心のどこかで、突破できないと思っていないか」
前へ。
前へ。
バルカ軍は進み続けている。
だが、その勢いは明らかに鈍っていた。
グラン重装歩兵は崩れない。
押されても一歩下がり、盾を構え直す。
倒されれば、後ろの兵が穴を埋める。
バルカ軍が一歩進むたびに、そのために支払う血の量が増えていく。
それでもスピリタスは動かなかった。
「俺は信じているよ」
静かな声だった。
「この包囲が完成されることを」
その時だった。
地鳴りがした。
スピリタスが右を見る。
土煙の中から、一騎の男が現れた。
マシニーサ。
その背後には、敵騎兵を打ち破った四千のヌミダス騎兵。
ほぼ同時に――。
左からも蹄の轟音が響いた。
ラエリウス。
二千のグラン騎兵を率い、敵騎兵を撃破して戦場へ帰ってきた。
スピリタスの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「ほらな」
右からマシニーサ。
左からラエリウス。
二つの騎兵隊が大きく弧を描きながら、バルカ軍の後方へ回り込んでいく。
正面には、スピリタス。
左右には、広がりきったグラン歩兵。
そして背後には――六千の騎兵。
退路が消えた。
カンナルでグラン軍を呑み込んだ魔人が。
今度は、自ら作り上げた戦争の形の中へ閉じ込められた。
包囲は――完成した。
四方から、グラン軍が押し寄せた。
正面から槍が突き出される。
左右から盾の壁が迫る。
そして背後から、マシニーサとラエリウスの騎兵が襲いかかった。
逃げ場はない。
バルカ軍は完全に包囲されていた。
それでも、古参兵たちは戦った。
アルペスを越えた者。
トレビを駆け抜けた者。
トラシムの湖畔で敵を屠った者。
カンナルで、グラン最強の軍を葬った者。
十年以上にわたり、バルカとともに戦場を渡り歩いてきた歴戦の勇者たちだった。
彼らは逃げなかった。
槍が折れれば剣を抜いた。
盾を失えば、敵の盾を奪った。
仲間が倒れれば、その屍を越えて前へ出た。
だが――。
一人。
また一人。
歴戦の勇者たちが倒れていく。
あれほど多くの敵を包囲し、殲滅してきた軍が。
今は自らが包囲され、四方から削り殺されていた。
バルカは、その光景を見ていた。
もう叫ばなかった。
命令もしなかった。
ただ、静かに見ていた。
正面。
左右。
そして背後。
どこを見ても、グランの旗がある。
突破口など、どこにもない。
その時――。
バルカは悟った。
自分はもう、戦場を動かしてはいない。
敵を誘い。
敵を欺き。
敵を包み。
思うがままに戦場を操ってきた魔人。
その魔人が今――。
鎖につながれていた。
一本は、正面を支え続けたグラン歩兵。
一本は、左右へ広がった横陣。
一本は、帰還したマシニーサ。
一本は、帰還したラエリウス。
そして最後の一本を握っているのは――。
スピリタス。
バルカは遠く敵陣を見つめた。
そこにいる若き将軍の姿を。
「……そうか」
小さく呟いた。
ようやく分かった。
自分を倒すために、この若者はここまで来たのだ。
スパルーニャから。
海を越え。
ヌミダスまで。
逃げ道を一つずつ塞ぎながら。
魔人を縛る鎖を、一つずつ繋ぎながら。
バルカは静かに目を閉じた。
己の運命を――悟った。
コメント
1件
読み終わりました……! 第91話、めっちゃ熱かったです🔥 スピリタスが冷静にバルカを包囲していく指揮、めちゃくちゃかっこよかった。バルカの「スピリタスを討て!」っていう焦りが逆に哀しくて、歴戦の魔人が自ら作った罠に囚われる終盤、鳥肌立ちました。カンナルと逆の構図で、運命の巡り合わせを感じさせる展開、本当に痺れました。続きが気になる…!
眠狂四郎
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