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宗一郎は無言でベビーベッドを黙々と組み立てていた、二人の間に気まずい空気が流れている、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう・・・今まで一度も誰にも竜馬でさえ自分の辛い幼少期や、亡き母について話すことはなかった
今でも乳がんで亡くした、たった一人で自分を育ててくれた母を恋しく思っている事、母の生前にまだ自分に出来ることがあったはずだと感じていることは、誰にも知られたくなかった
しかし、先日この赤ん坊に会ってから、何だかいつもと同じ自分のペースをつかめなくなっていた
自分の母親の身に起きたことが、宗一郎の女性に対する見方に影を落としているのは自分でもわかっている。どう反応していいかわからないという風の真紀の膝に座っている麗華は、可愛くまた眠っている、ふっくらした頬はかすかに熱をもって赤くなっている
ベビーベッドが出来上がり、なんと宗一郎はセットで買わされたと言ってベビー布団も一式そろえて設置した
真紀が眠っている麗華をそっと寝かせて、布団をかけた、立派なベビーベッドに真紀は感激で涙が溢れた
「ありがとうございます!!何てお礼を言えばいいか・・・」
真紀が涙ながらに宗一郎に感謝を示した、感激して瞳を輝かせる真紀の笑顔は美しかった、さわやかで人の気持ちを晴れやかにする嘘のない笑顔だ
宗一郎は怯んだ、彼女は自分の不意をつくことがある・・・一度ほほえむだけで、誇り高く子供をあやすだけで・・・どう言う訳か宗一郎の心を奪ってしまいそうになる
彼女の微笑みは、凍っていた宗一郎の心の壁をすり抜け、心臓のど真ん中に命中した。彼女の傍にいると危険かもしれない
「それじゃ・・・俺はこれで」
「まっ待ってください!!」
真紀は自分の顔を見ようともしないであわてて去って行こうとする宗一郎の右手の手首を咄嗟に掴んだ。どうしてもどうしても彼に聞きたいことがあった
じっと二人が見つめあう
「・・・お母様が部長に産んだ事を後悔してるって言ったんですか?」
思いがけず彼女に手首を掴まれ、総一郎はその場に固まった、小さな彼女の手は温かく、思わずその手を握り返したくなった
真紀はどうして自分がこんな質問を彼にしているのか分からなかった、しかし次の瞬間、また彼が厳しい顔つきになった、先ほどの彼のリラックスした雰囲気は跡形もなく消えていた
「また顔を出す」
そう言って宗一郎は逃げるように資料室から退散した
.。 .:・.。. .
就業時間がとっくに終わった金曜日のとある夕方・・・
宗一郎は誰もいない資料室のドアを開けた、そこは綺麗に片づけられていたが、真っ白なベビーベッドだけが大きな存在感を放っていた
宗一郎はホッとした、まだ彼女はここで作業をしている、ここ数日は財務省検察局員が財政融資資金の使用の適正化を図るなどとほざいて、おまけに今日は一日中財務使用状況などを調査する実地監査に付き合わされていたので、今日こそは顔を出そうと思っていたのに、遅くなってしまい、彼女が業務中にはここにはこれなかった
挙句の果てには、午後には扁桃炎の症状が現れて来ていたので、夕方にはのどの痛みを和らげる薬を飲んだのに、痛みはどんどん酷くなっている、そして今では悪寒までもが体を襲っていた
初めて資料室で会った時、彼女の困っている表情、彼女に会いたい衝動がこみ上げてきて、夕方には普段の仕事一本やりの自分を打ち負かした
彼女は神崎広告代理店の秘密兵器だ、ヤツらが彼女を庇うのも無理は無い、宗一郎は彼女が数々の広告案件を成功させつつ、自宅でも子育てに奮闘していることに思いをはせずにはいられなかった
自分とは違って仕事で疲れ果てて帰宅しても、横になって休める訳ではないのだ、母も自分が寝てからもいつも家事をしていた
ゴホッ「喉が痛てぇ・・・」
少しでも彼女の気配を感じたくて、なんとなく帰りたくなくてこの資料室に立ち寄ってしまった、ベビーベッドに近寄ると例のあの赤ん坊のベビーパウダーの香りがする・・・宗一郎はその香りを吸い込んだ、途端にあの子を抱きしめていた時の温かい気持ちが蘇った
その時、ベビーベットの下にあの子が咥えていたおしゃぶりが落ちているのを発見した
彼女の電話番号は経歴書を見て暗記している、宗一郎は数字に強い、そしてあの子はこのおしゃぶりがないと寝ないと彼女が言っていたのを思い出した
―電話してみようか―
宗一郎はバカバカしいと首を振った、母親なんだからおしゃぶりのスペアぐらい持っているだろうし、無かったらいくらでも買いに行けるだろう、そもそもおしゃぶりが無いことぐらい何でもないかもしれない
そっとデスクに置いておけば、週末開けには見つける筈だ、自分はこのまま帰って風邪を治すべきだ、今度は宗一郎が檻に入れられた熊の様にその場をウロウロする、そしてやっぱり彼女のスマホの番号を押した
そこでもう宗一郎は認めた、自分はただ単に彼女の声を聞きたいだけなのだ
『もしもし・・・』
彼女の声が聞こえるなり、後ろで酷く泣いている赤ん坊の声が聞こえた
「あの・・・浜田だけど」
そう言うと彼女は驚いているようだった
『まぁどうしましょう!私何かしましたか?』
驚いて心配そうな彼女の声、そしてまだ電話の向こうでワンワン麗華は泣いている
「麗華ちゃん、ずいぶん泣いているね」
ゴジラ並みの鳴き声をスマホで聞いていたら頭痛がしてきた、そして喉もどんどん痛くなっている、ここはさっさと帰って寝るに限るのに自分はいったい何をしているんだろう
ぎゃ~お!ぎゃ~お!『すいません、麗華のお気に入りのおしゃぶりを失くしてしまって、今ちょっとこの子機嫌が悪いんです』
きわめて冷静な声を出そうとしているが、明らかに彼女は困っている、宗一郎は手のひらに乗っているミッキーマウスのおしゃぶりをにぎりしめ、壁にもたれて言った
「そういうことなら俺が役に立てると思うんだが、今からそっちへ行ってもいいかな?」
.。 .:・.。.
一時間後、真紀のアパートメントの玄関のインターフォンが鳴った、ドアを開けて宗一郎が立っているのを真紀は信じられない気持ちで見ていた
奥の部屋で激しく泣いている麗華の声がする、すぐさま宗一郎は真紀におしゃぶりを渡した
「これが必要かなと思って」
「ああっ!!ありがとうございます!さぁ、入ってください」
「洗った方がいいかも、床に落ちてたから」
真紀が喜んでおしゃぶりを洗いに宗一郎へ背を向けた、少し照れくさそうに宗一郎はあまり周りを見ないように革靴を脱いだ
「おじゃまします・・・」
こじんまりとした可愛いらしいリビングだった、そしてここはいかにも子供がいる家だった
小さなお茶碗、折り紙の花、ぬいぐるみ、細々したものがあちこちに溢れ、思わず宗一郎が母と過ごした小さなアパートを思い出させる
今や麗華は警報音のような声を出して泣き叫んでいる、真紀に続いて宗一郎も麗華のベッドルームを覗いた、鳴き声がズキズキする頭に響く
「さぁ~れいた~ん、あなたの大事なものがみつかったわよ~ご機嫌なおして~」
真紀が麗華におしゃぶりを与えると、すぐさま麗華はピタリと泣き止み、チュパチュパ至福の時間を噛みしめ始めた
真紀がぐたっとベビーベッドにうなだれた
「ああっ~よかった~家に帰って来てから失くしたのに気づいたんですけど、新しいものを買いに行こうと思っても、こんな時間じゃどこも開いてなくて」
ハァ・・・「そうよかった・・・それじゃ俺はこれで・・・」
うなだれたのは真紀だけではなかった、宗一郎はズルズルと壁にもたれて座り込んだ
―もうだめだ・・・足に力が入らない―
「部長!浜田さん?どうしました?いやだっ!すごい熱!」
真紀は、座り込んだ宗一郎のおでこを触って驚いた
コメント
1件
読了しました。今回は宗一郎の内面がすごく丁寧に描かれていて、胸にくるものがありました。幼少期やお母さんの話に触れたシーンは、彼の頑なさの理由がじわじわと伝わってきて切なかったです。でも最後に熱で倒れるところまでが、“彼が無意識に真紀と麗華のそばにいたいんだな”って強く感じられて、胸がぎゅっとなりました。次が気になります!