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「実《みのる》様は、酔いが回った状態で、かなり遅くに戻られたのです……」
瀬川の言葉に、岩崎は、月子と挨拶周りの途中で不機嫌な実《みのる》と出会った事を思い出した。
佐紀子一人を残し、自分は出かけると言っていたが、結局、酒を飲みに行ったようだった。
「佐紀子お嬢様は、実《みのる》様が戻られるまではと、起きてお待ちになられていたのです。おそらく、なかなかお戻りになられない実《みのる》様に、苛立たれたのか、お嬢様は、仏壇に手を合わせていたようで……」
そして、実《みのる》が戻って来るが、佐紀子からの小言、仏壇の前に座りこむ姿に、実《みのる》は、辛気くさいと怒鳴り付けたようだ。
その声に何事かと、瀬川は起き出し、様子を見に行ったというが、その時には仏壇の蝋燭が畳の上に転がり落ち、小さな炎を上げていた。
佐紀子は、実《みのる》にぶたれたのか、頬に手をあて座り込んでいる。
火は、消える訳ではなく燃え広がって行った。
その光景を見た実《みのる》は、面白がって台所へ向かい、油瓶を持って来る。
「……確かに、実《みのる》様は、かなり、酔っぱらっておられましたが、私も、夜中ということもあり、気が動転して。もっと早く、皆を起こせば良かったのです。いや、蝋燭の火を消せばよかったのですが、足が震えて……しかも、実《みのる》様が、次々と部屋に油を撒かれた。流石に、私も、声をあげ、実《みのる》様を押さえましたが、蹴りとばされ……、火を消そうと目についた座布団を火に被せても……もう、火の手はあがっておりで……」
瀬川は、ひたすら、初動が遅すぎたのだと自分を責めた。
「瀬川さん、誰しも、そんなことに巻き込まれては、動揺して体が動きませんよ。とにかく、よく、皆さんご無事で……」
岩崎は、瀬川を労いながら、二代目が言った、仏壇の火の始末。そして、人力車の車夫が言った、痴話喧嘩からの放火という言葉を思い出していた。
火災の原因としては、どちらも正しい事になるが、果たして、瀬川というべきか、西条家は、どう仕舞い付けを行うつもりなのだろう。
佐紀子の変貌に、瀬川も参ってしまったのだろう。岩崎の前にいるのは、西条家をまとめあげる男ではなく、ただの老人だった。
これでは、世間を上手く誤魔化すどころか、今の現状もまとめられないはずだ。
「おい!君!頭《かしら》はいるかっ!!」
残骸となった屋敷を片付けている人夫に岩崎は声をかけた。
しばらくして、人夫達をまとめあげる役目の男がやって来た。
小柄な若者だったが、西条木材店の屋号入りの袢纏を着こんでいる上からでも、鍛え上げられた屈強な体つきとわかった。
「瀬川さん。岩崎男爵家からの見舞です。これで、必要なものを用立ててください」
胸ポケットから、岩崎は封筒を取り出すと、呼びつけた若者へ差し出した。
「頭、瀬川さんは、何かと忙しい。ひとまず、あなたに渡しておくよ。すまんが、細々としたものを揃えてくれないか。あなたの、男気を買っての頼みだ。どうだろう?」
岩崎に言われた若者は、封筒の厚みに、瞬間、ぎょっとしたが、今にも崩れ落ちそうな弱りきった瀬川をちらりと見ると、へい!と、大きく返事して、差し出されている封筒を両手で丁寧に受け取った。
「瀬川さん、この頭が、上手く動いてくれますよ」
岩崎の言葉に、頭は、任せてくれと頷くと、駆け出して、人夫達を集め始める。
「い、岩崎様!!!」
瀬川は、叫ぶと同時にその場に土下座した。
「なんと、お礼を申し上げればよいのやら……」
「なに、月子の実家の災難ですからね、こちらも、それなりに動かせてもらっただけです。礼など要りません。いや、礼ならば、月子へ……」
瀬川は、はっとした面持ちを月子へ向けた。
「月子さん、いや、月子お嬢様!!私は、間違っておりました。佐紀子お嬢様に言われたからとはいえ、あなた様を、あのように邪険にするべきではなかった。奥様も、あなた様も、西条家の為に、よく働いてくだすったのに!それを……どうか、どうか、後生です。私を許してください!」
瀬川は、今回の騒動で目が覚めたと、月子にひたすら謝った。
土下座した瀬川は頭を下げ続け、気がつけば、その場に集まっていた使用人達もやって来て、月子へ頭を下げている。
「……あっ、あのっ」
突然の事に、月子はどうすれば良いのかわからず、岩崎を見上げてしまう。
「うん、皆、月子は良い子だと言ってくれてるんだ、はいはい、と、答えておけばいい」
言って、岩崎は、月子の頭にポンと手を乗せ、優しく微笑んだ。