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第三話
「五人目の席は、最初から空いていた」
人は、理解できないものに出会ったとき、二つの反応をする。
一つは、逃げること。
もう一つは、なかったことにすること。
その日の帰り道、春斗と美咲は、いつも通りだった。
「いやー、やっぱ夏はいいな! 海見えるだけでテンション上がる!」
「分かる。音とか匂いで、昔のこと思い出すよね」
二人は、灯台公園の帰り道を並んで歩いている。
――その横で、僕だけが、現実から半歩ずれていた。
彼女は、今も隣を歩いている。
白いワンピース。
裸足。
アスファルトの上を歩いているのに、足音がしない。
春斗と美咲の視線は、彼女を完全にすり抜けている。
「……ねえ」
彼女が小さく声をかける。
「何?」
「二人とも、楽しそうだね」
その声には、羨ましさと、ほんの少しの諦めが混じっていた。
「……そうだね」
それ以上、何も言えなかった。
話しかけたい。
でも、話しかけられない。
紹介したい。
でも、紹介できない。
この状況が、何よりも残酷だった。
翌日。
学校は、相変わらずの騒がしさに満ちていた。
夏休みとはいえ、補習と部活で人は多い。
昇降口には、湿った空気と制汗剤の匂いが漂っている。
「よー恒一!」
背後から肩を組まれる。
「今日は元気そうじゃん」
「お前が近いだけで体力削られるんだよ」
「ひでぇ!」
春斗が笑う。
教室に入ると、見慣れた光景が広がっていた。
机。
椅子。
窓から差し込む夏の光。
そして――
「……あれ?」
僕は、思わず足を止めた。
「どうした?」
「……席」
僕のクラスは、五人一組の島配置だ。
でも、僕たちの島には――
机が一つ、余っている。
「前からだろ?」
春斗は不思議そうに言う。
「いや……こんなだったっけ?」
「恒一、寝ぼけてない?」
美咲も首を傾げる。
でも。
僕の胸だけが、ざわついていた。
「……前から、空いてた?」
「うん」
二人は、即答した。
「最初から」
その瞬間。
「やっぱり」
背後で、彼女の声がした。
振り返ると、彼女は空いている席の前に立っている。
「ここ、私の席」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……君、学校に通ってたの?」
「うん」
彼女は、少しだけ誇らしげに笑った。
「恒一と、同じクラス」
その言葉が、現実をひっくり返す。
「じゃあ……なんで、誰も覚えてない」
彼女は、少し困ったように視線を伏せた。
「それは……」
言いかけて、口をつぐむ。
「言えない?」
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「思い出されたら、言える」
意味が分からない。
でも、妙に筋が通っている気がした。
「……名前は?」
彼女は、少しだけ間を置いた。
「ヒント、あげる」
そして、机の引き出しを指差す。
「そこ、開けてみて」
恐る恐る、引き出しを開ける。
中に入っていたのは――
古い、色褪せたノート。
表紙には、かろうじて読める文字。
『――のなつ』
「……読めない」
「消えかけてるでしょ」
彼女は、どこか寂しそうに笑った。
「それ、私の日記」
日記。
ページをめくる。
子どもの字。
稚拙だけど、真っ直ぐな言葉。
『きょう、こういちくんと かえりみち あるいた』
『えきのまえで ころんだ』
『また あした』
喉が、詰まる。
「……これ」
「うん」
彼女は、頷いた。
「全部、あなたの夏」
その時。
「おーい恒一!」
春斗の声。
「早く座れって! 先生来るぞ!」
慌てて顔を上げる。
机の前には――
誰もいない。
ノートも、消えていた。
「……今、誰と話してた?」
美咲が、不安そうに尋ねる。
「……誰でもない」
また、嘘をついた。
でも、心は叫んでいた。
彼女は、確かにここにいる。
放課後。
屋上。
金網越しに、町と海が見える。
「ねえ、恒一」
彼女は、フェンスにもたれかかりながら言った。
「私、幽霊じゃないよ」
「……分かってる」
「未来人でも、異世界人でもない」
「……それも」
彼女は、少し笑った。
「じゃあ、何だと思う?」
考える。
消える存在。
忘れられる存在。
夏にだけ現れる存在。
「……記憶?」
「近い」
彼女は、空を見上げる。
「私はね」
そして、静かに言った。
「忘れられた“約束”」
胸の奥で、何かが軋んだ。
「十年前の夏、あなたは言ったの」
彼女は、はっきりと。
「『ずっと一緒にいよう』って」
思い出せない。
でも、言った気がする。
確かに。
「でもね」
彼女は、少しだけ笑う。
「それを忘れた瞬間、私は世界から零れ落ちた」
風が吹く。
空が、少しだけ滲んで見えた。
「だから、お願い」
彼女は、僕を真っ直ぐ見る。
「私の名前を、思い出して」
「……思い出せなかったら?」
彼女は、少しだけ間を置いて答えた。
「この夏が終わるとき、私は完全に消える」
その言葉は、驚くほど静かだった。
でも――
胸に突き刺さる。
「ねえ、恒一」
彼女は、最後にこう言った。
「あなたは、私を取り戻す?」
それとも。
「また、忘れる?」
答えは、もう決まっていた。
でも、その答えを口にするには――
この夏は、あまりにも短すぎた。