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「お誘い、ありがとうございます」と、城井坂麗花さんは微笑んだ。
「いえ、仕事とはいえ挨拶もなしに席を立った先日のお詫びです」と、俺も笑顔を返した。
「気になさらないでください。お仕事に真面目な方は素敵ですわ」
「ありがとうございます」
作り笑顔で頬がつりそうだ。
「蒼さんはいつもこんなに素敵なお店でお食事をなさるんですか?」
そんなわけないだろ。
「一人では寂しいですからね。この店の評判は聞いていたので、ご一緒していただける可愛い女性が出来たら来たいと思っていたんですよ」
心にもない褒め言葉に、舌を噛むかと思った。
これも、仕事だ。
「可愛いだなんて……、お上手ですね」
「本心ですよ」
「嬉しいです」と言って、麗花さんが恥ずかしそうに微笑む。
咲の飯が食いてぇ……。
鼻を衝く甘い香水の匂いに、料理の味はかき消された。
俺は麗花さんのご機嫌をとり、甘い言葉を並べ、また会う約束をして、彼女をタクシーに乗せた。
俺はタクシーが見えなくなったことを確認して、空のタクシーに乗り込むと、真さんの家の住所を運転手に伝えた。
*****
「お嬢様とフレンチ食べてきたんでしょう?」
俺は咲の作った豆腐の味噌汁をすすった。
「食べた気しなかった」
「ふぅん……」と、咲が鋭い目つきで俺を見た。
「何?」
「別に?」
明らかに咲は不機嫌だった。
そして、俺も不機嫌だった。
「咲がお嬢様に気に入られろって言うから、会いたくもない女と食いたくもないフレンチ食ってきたんだろ」
「そうね。でも、やっぱり他の女の移り香なんて気に入らないから、ジャケット脱いで」
「……妬いてんの?」と言いながら、俺はジャケットを脱いで咲に渡した。
「そうよ。こんな状況じゃなきゃ、絶対許さない」と言いながら、咲はジャケットを持ってリビングを出て行った。
咲が戻ってくる前に、俺は食事を終えて食器を台所に片づけた。
昨日の作戦会議の後、咲はウィークリーマンションから真さんの家に移動した。
宮内がT&N観光にいるとなると、咲を一人にはさせられないと、全員一致で判断した。
「内藤社長の第二秘書、町陸斗は大越雪と遠縁で、三年前に入社している。正確には、『虫使い』が消えた三か月後だ」と、侑が言った。
「見くびられたもんね」と、百合さんは不機嫌そうに言った。
「まったくだわ」と言った咲の瞳から、涙は消えていた。
「で、町陸斗から川原に辿り着けそう?」
「町陸斗名義ではハズレだったけど、大越雪名義の不動産が三件あった。一つは埼玉にある自身の生家で、二年前に生前贈与されている。他には横浜と京都にマンションだ」
「どちらかに川原が匿われている?」
「詳しくはこれからだけど、怪しいな」
「…………」
しばらくの沈黙の後、百合さんが口を開いた。
「これ以上は推測の域を出ないわね。咲、指示を」
「侑は大越雪名義の不動産の動きと、町陸斗の動向を調べて。それから、昨夜のデータの解析を」
「了解」
「百合さんは『虫使い』をお願いします。それから、これまでの作業の継続を」
「任せて」
「真は和泉さんの情報を聞き出して。もう探り合いの必要はないわ。宮内のことを話しても——」
「その必要はないわ」と百合さんが遮った。
「真くん、和泉に伝えて。『私の勝ちだ』って」
「わかりました」と真さんが頷いた。
咲が俺の顔を見た。
「わかってるよ。俺はこれまで通り——」
言いかけて、百合さんが笑いを堪えているのに気が付いた。侑も、真さんもだ。
「なんですか?」
「三男には重大な役目があるのよ」
「だけど、咲はそれをさせたくないんだよな?」と、真さんが続けた。
咲は唇を固く閉じて、俺から目を逸らした。
「何だよ、言えよ」
「……」
「ハニートラップよ」と、百合さんが答えた。
「ハニートラップ?」
「私たちの動向を悟らせないためのカモフラージュとも言えるかしら?」
咲がため息をついた。
「内藤社長と城井坂社長の思惑を探りたいの。城井坂がT&Nとのパイプで何をしたいのか」
「あのお嬢様が何か知っているとは思えないけど?」
「どうかしら? 男が思うよりずっと、女は計算高くてしたたかよ。実際、お嬢様は三男とのツーショットの拡散に成功したじゃない」
「あれが計算?」
「酔ってたんじゃなければね」
「こっわ……」
侑が百合さんを見て言った。
「引っかかる男が馬鹿なのよ」
「まあまあ……。とにかく、蒼は城井坂のお嬢様との見合いを進めて情報を得る、ってことでいいのか、咲?」と、真さんが咲に確認した。
「ええ……」
咲は小さく頷いた。
夜、広正伯父さんから電話で麗花さんにお詫びをするように言われ、俺は彼女を食事に誘った。
「充兄さんには話したのか?」
俺は食器を洗う咲に聞いた。
「何を?」
「宮内のこと」
「いいえ?」と言って、咲は水を止めた。
「充さんを巻き込むつもりはないわ」
「いや、でももう巻き込まれてるだろ」
咲は缶ビールを二本持って、俺の隣に座った。
「気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど」と、咲は缶を開けた。
「これ以上、この件に築島の人間を関わらせたくないの」
「どういうこと?」
俺と咲は缶に口をつけた。
「何度も言ってるけど、私のやり方はかなり危ういわ。露呈したら無事では済まない」
「それはみんな同じだろう?」
「同じじゃないわ。私たちは一時騒がれることがあっても、どうにでも生きていける。でも、蒼は築島の、経営者一族として世間の記憶に残るでしょう?」
あなたと私は違う。
そう、壁を作られたようで、腹が立った。「つまり?」
「私たちが公の場で糾弾されることがあったら、あなたは私たちを切り捨てて」
私はあなたと別れる覚悟は出来ている。
そう、俺の方が切れ捨てられた気分だ。
咲が俺に求める『覚悟』とは、そんなものなのか……?
「俺はT&Nに縋りつかなきゃ生きていけないから?」
「違う! 私は私の力の及ばない責任まで背負え——」
「咲に、俺の人生を背負ってもらおうなんて考えてない!」
咲は俺の声に一瞬、たじろいだ。
「咲、お前が仲間を大切に思ってることはわかってる。どう転んでも、この件が片付いた後の身の振り方まで考えてるんだろう? 立派だと思うよ。俺には真似できないし……、したくもない」
「蒼……」
「この件で職を失ったら責任を取れなんて、誰か言ったか? みんなはお前が転職先の世話までしてくれるから、協力してるのか?」
「そうじゃ……ないけど……」
咲の表情が曇っていく。
こんな風に、咲を責めるようなことは言いたくない。
本当は、咲を抱き締めて、思いっきり可愛がりたい。
だけど、それじゃあ、咲の刹那的な考えは変わらない。『現在』は俺の感触を楽しめても、『未来』は俺との別れを覚悟してる。
俺が欲しいのは、『現在』の咲だけじゃない。
「咲、俺たちを見くびるな。誰も、お前に巻き込まれたなんて思ってない。誰も、お前のために動いてるんじゃない。私がみんなを守らなきゃなんて、お前の独りよがりだ」
「『未来』を見据えることが、そんなに悪いこと?」と、咲が俺を睨みつけた。
「これが失敗して、みんなが矢面に立たされることになっても、自己責任だと割り切れって?」
「そんなことを言ってるんじゃない! お前が見据えてる『未来』が、お前の犠牲の上に成り立ってるんじゃなきゃいいんだよ。でも、お前は俺たちを守るためならすべての責任を一人で背負うつもりだろう? 誰も、そんなことは望んでないんだよ」
「私は守れるものを、守りたいものを守ろうとしてるだけよ!」
咲が瞳に涙を浮かべて、声を荒げた。
咲が仲間に頼れるのは、自信があるからだ。何かあっても、自分が守れる自信。でも、築島の人間である俺のことは守り切る自信がないから、一度は突き放した。
充兄さんを関わらせないようにしているのも、同じ理由だろう。
咲が、強くて自信に溢れているのは、常に『未来』を見据えて、大切なものを守れるようにと備えを怠らないからだろう。
それを否定するのは、『咲らしさ』を否定することになるのかもしれない。
それでも、このままじゃ、咲は幸せな自分の『未来』を、俺の隣にいる『未来』を想像すらしないだろう。
俺は、それが腹立たしかったし、悔しかった。
そして、寂しかった……。
「お前は何様だよ。他人の人生に責任を持つなんて、出来ないんだ。思い上がるな」
泣かせたいわけじゃない。
抱きしめて、甘やかして、愛したい。
俺は、ただ、咲にもっと自分自身を大切にして欲しかった——。