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「咲、しょげてたぞ」
久しぶりに社内で顔を合わせ、真さんが言った。
昨夜は、もう少しで咲を抱きしめてしまいそうな、際どいタイミングで真さんが帰宅し、俺は咲とは言葉を交わさずに帰った。
「すいません、偉そうなこと言って」
「いや、いいんじゃないか? 間違ったことは言ってないんだし」
「けど、咲は咲で色々頑張ってるのに……」
「何で、お前が泣きそうになってんだよ」
真さんが自動販売機でコーヒーを二本買い、一本を俺に手渡した。俺はお礼を言って受け取った。
俺たちは真さんが与えられている部屋に入った。
「あんな風に追い詰めるつもりじゃなかったんですよ。せっかく、また会えるようになったのに……」
「俺が言うべきなんだろうけどな」と言いながら、真さんはコーヒーを一口飲む。
「常に三歩先を見て備えるってのは、咲の処世術だからな。やめろって言っても無理だな」
「備えは大事ですよ。けど——」
「わかってるよ。蒼は、咲の『備え』が自分以外のためだけなのが気に入らないんだろう?」
俺は缶の口を咥えたまま、頷いた。
「千鶴ちゃんを亡くしてから、咲には自傷癖みたいなものがあるからな……」
「自傷癖?」
「直接傷を作ることはなかったけど、好きでもない男とセックスしたり、他人と深く付き合うことを拒絶したり……」
真さんはジャケットのポケットからスマホを取り出し、操作し、テーブルに置いた。
「自分だけが傷つかずに助かったことへの罪悪感ですか?」
「だろうな……。でも、もう大丈夫だ。今はお前がいる」
「そうですかね……。『いざって時は私を切り捨てて』って言われましたけど」と言って、俺は深いため息をついた。
「咲はいつでも俺と別れる覚悟をしてるみたいですよ」
「そうかね。俺には『私は大丈夫だから、蒼は自分を守って』って聞こえるけど?」
「そういう……」
そういう捉え方もあるか……?
「お前と別れた日、あいつ泣いてたよ。蒼に嫌われたくないって」
「え——」
「あんなに取り乱す咲を見たのは、千鶴ちゃんを亡くした時以来だよ」と言って、真さんはコーヒーを飲み干した。
「大丈夫だ。咲はちゃんとお前との『未来』を欲しがってるよ」
*****
思わぬ場所で顔を合わせて、平然と挨拶をして見せても、咲の脳はフル回転で状況の把握に努めているのだろうと思った。
T&N観光八階。
エレベーターを降りた俺は、正面から歩いてくる充兄さんと咲を見た。
仕事とはいえ、咲が俺以外の男と肩を並べて歩くのは、見て気持ちのいいものじゃない。正確には、ムカつく。
「蒼?」
俺を見つけて先に名前を呼んだのは、充兄さんだった。
咲は秘書らしく、立ち止まった充兄さんの一歩後ろに下がった。
「どうしたんだ?」
「広正伯父さんに用があってね」と言って、俺は咲を見た。
咲と会うのはあれ以来、三日ぶりだった。
「そうか。じゃあ、後で俺んとこに寄れよ。時間、取れるよな?」と言いながら、充兄さんが咲を見た。
「はい」
咲は俺とは目を合わせようとしなかった。
俺が怒っていると思っているのか。
咲が怒っているのか。
もう、そんなことはどうでも良かった。
「じゃあ、後で」と言って、俺は社長室に向かった。
今日、広正伯父さんに会いに来たのは、俺の意思だった。
この三日、城井坂マネジメントがプロジェクトに参加することを提携会社に報告に回って、プロジェクト続行の確約を得た。これで、ひとまず和泉兄さんが復職するまでの時間稼ぎは出来た。
「きみとの食事が楽しかったって、麗花が喜んでいたそうだよ」
広正伯父さんが上機嫌で言った。
「プロジェクトも存続が決まって良かった」
「ありがとうございます」
「それで、どうだい? 麗花を気に入ってもらえたかな?」
聞かれることはわかっていた。
俺は用意してきた台詞を言った。
「はい。僕には勿体ない女性ですね」
「事を急く気はないが、どうだろう? 私の引退前に麗花の花嫁姿を見せてはもらえないかな?」
俺は次の台詞を読んだ。
「出来ることならそうしたいのですが、金融庁の認可が下りるまでは僕も忙しいですし、麗花さんとももう少し今の関係を楽しみたいので……」
「確かに、夫婦になってしまうと新鮮味が失われるからな。わかったよ。だが、来週の私の引退前の慰労パーティーには、きみの婚約者として麗花を出席させる」
これは、お伺いではなく決定事項だな。
「わかりました。麗花さんにはドレスをプレゼントさせていただきます」
社長室のドアがノックされ、主の返事の後で開いた。
「お取込み中に失礼いたします。営業部長から、急ぎ承認を頂きたいと申請書を預かりまして」
俺より少し若い男性。
目が細く、黒淵の眼鏡をかけ、長めの前髪を横に流している。
「ああ、構わない。蒼くん、少し失礼するよ」
男性は社長に書類を渡し、社長が承認印を押した書類を持って部屋を出ようとした。
「宮内さん」
俺は男性の背中に呼び掛けた。
「な……」と、明らかに動揺したのは広正伯父さんだった。
「彼は町くんだが……?」
「ああ、すみません。『宮内さん』は慎治おじさんの秘書でした」
ドアの前で立ち止まった町陸斗が振り返った。
「いいえ、何か御用でしょうか?」
「いえ、広正伯父さんの秘書の方が女子社員に人気のイケメンだと聞いたので、興味がありまして」
「それは光栄です」
そう言って笑った町の目だけが笑っていなかった。
「伯父さん、久しぶりに充兄さんとも話がしたいので、これで失礼させていただいても構いませんか?」
「ああ、構わないよ。麗花のこと、よろしく頼む」
俺は立ち上がってスーツのジャケットを伸ばす。
「はい。また、ご連絡します」
俺は町と一緒に社長室を出た。
「町さんはパソコンやネット関係に精通してらっしゃるんですよね?」
「え?」
「僕の友人が、あなたを高く評価していました」
「ありがとうございます」と言った町の唇が震えていることに気が付いた。
「いえ、では」
俺は副社長室のドアをノックした。充兄さんの返事の前に、ドアが開いた。
「どうぞ」と言って、咲は部屋を出て行った。
「伯父さんとの話は済んだのか?」
「ああ」
俺と充兄さんは応接用のソファに座った。
「喧嘩か?」
「そんなんじゃない」
ドアがノックされ、すぐに咲がカップを載せたトレイを持って入って来た。
「そうだ、充兄さん」俺はコーヒーのカップをテーブルに置く咲の手を掴んで言った。
「今度咲に触ったら殺すよ?」
「ちょ——」
俺の手から逃れようとした咲の手をしっかりと握り、放さなかった。
「蒼!」
「他の女と見合いした男の台詞か?」と言って、充兄さんはコーヒーをすする。
「それが咲の望みだからね。けど、咲は手放さないし、他の男が触るのは許さない」
「知らなかったよ、お前がそんなに嫉妬深いなんて」
「咲に関してだけね」
「なるほど?」と言って、充兄さんがニヤッと笑った。
「で、牽制したところでなんだけど、充兄さんに頼みがある」
「なんだ?」
「このビルにいる間は、咲を守って欲しい」
「蒼?」
ようやく、咲が俺と目を合わせた。
「さっき、宮内に挨拶してきたよ」
「え——」
「宮内?」と、充兄さんは聞いた。
本当に、充兄さんには話してないんだな。
「蒼! どうしてそんなこと——」
「言っただろ? 俺にもお前の弾除けくらいにはなれるって」
「そんなこと……」
「咲、これが俺の『覚悟』だ」
「あーーー、なんか格好いい台詞に水を差すようだけど、何の話?」と、充兄さんがわしゃわしゃと頭をかいた。
「兄さん、今回の騒動の黒幕がこのビルにいる」
「蒼!」
「社長か?」と、充兄さんは迷いなく聞いた。
「違う」
「蒼!」
「咲、お前が俺や兄さんに火の粉が飛ばないようにと気遣ってくれるのは嬉しいけど、俺にも兄さんにも経営者一族としてのプライドがある。身内の不始末は身内で処理するさ」
「だけど……」
「兄さん、秘書に席を外してもらっていい?」
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