翌朝、学校の空気は、雨の残り香のように重かった。
昇降口を抜けた瞬間、誰かのひそひそ声が耳に届く。
「……本当に死んだの?」「ニュースでやってた」「心不全って言ってたけど……」
誰もが顔を寄せ合い、噂を囁き合っている。
教室の扉を開けると、湿った曇り空の光が差し込んでいた。
黒板の前には副担任の佐久間が立ち、手にした紙を握りしめている。
ハレルが席についた瞬間、いつもの朝のざわめきが嘘のように消えた。
「……昨日のニュース、みんなも見たと思うが――柏木先生が亡くなられた。」
その声に、教室の空気が凍った。
誰もが言葉を失い、沈黙だけが広がっていく。
「死因は急性の心不全だそうだ。……警察の発表では、事件性はないらしい。」
黒板の上の蛍光灯が小さく瞬いた。
誰かの嗚咽が空気を震わせる。
女子の一人が呟く。「この前まで普通に授業してたのに……」
「最近ずっと休んでたよね」「体調悪そうだったし」
その声の奥に、不安と恐れが混じっていた。
ハレルは窓の外を見た。
灰色の空の向こうで、カラスが一羽、旋回している。
――その顔は、柏木先生そのものだった。
異世界で見た“号外”の中の大臣アルディア。
夢だと片づけるには、現実の死があまりにも早すぎた。
視線を右にやる。
一ノ瀬涼の席が、今日も空いていた。
机の上は何も置かれていない。ノートも、筆記具すらも。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
ハレルの胸の奥に、鈍い痛みが走った。
――暗殺犯リオ。
異世界の号外に載っていたその名と顔が、どうしても涼と重なって見えた。
放課後。
昇降口の外は、まだ地面が濡れていた。
靴の裏が濡れたコンクリートを踏む音が、静かな校庭に響く。
校門の前には、ひとりの男が立っていた。
スーツの上から安物のレインコートを羽織り、手にはICレコーダーを持っている。
どう見ても、フリーの記者だ。
「ねえ君、柏木先生のこと、何か知ってる? 最近変わった様子とか――」
通りがかった生徒たちは顔を伏せ、足早に立ち去っていく。
記者は焦れたように息を吐いた。
「柏木先生、生前首筋に何か“アザ”のようなもの、見たことない?」
突然聞かれた生徒が、戸惑いながら首を横に振る。
「い、いえ……分かりません」
「そう……やっぱり誰も気づいてないか」
記者は小さくメモを取り、空を仰いだ。
その目は疲れ切っているのに、どこか確信めいていた。
ハレルは少し離れた場所から、それを見ていた。
――アザ?
なぜそんなことを聞く?
心不全で死んだ人の“首筋”に、いったい何の関係があるというのか。
胸の奥に、説明のつかないざわめきが広がる。
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
画面を見ると、昨夜ダウンロードした《クロスワールド・ゲート》のアイコンが、
自動的に起動していた。
「……なんで、勝手に――」
音もなく、アプリの画面が黒く染まる。
液晶の中心に白い円が現れ、ぐるぐると回転し始めた。
それはまるで、何かを“探している”かのように。
次の瞬間、ネックレスが震え、微かな電子音が耳を打った。
ピィ――。
ハレルは反射的にスマホを握る。
指先から光が溢れ、視界が溶けた。
――まるで、誰かに呼ばれるように。
風が止み、音が遠のいた。
重力が裏返り、世界が白に塗りつぶされていく。
■
光が収まったとき、目の前には再びあの街があった。
石畳に夕陽が差し込み、濡れた道が黄金色に輝いている。
パンの香りと焦げた油の匂い。
露店の呼び声と、遠くの鐘の音が重なり、世界がゆっくりと動いていた。
ハレルは深呼吸した。
体が重く、足元の感覚が確かに現実のものだった。
「……戻ってきたのか。」
呟きが、冷たい風に溶けた。
頭上を見上げると、夕焼けに照らされた雲が、まるで燃えているように見える。
その光景に、現実感が少しずつ失われていく。
と、背後から風が吹いた。
ハレルが振り向く。
――そこに、少女がいた。
銀灰色の髪が風に揺れ、青い瞳が静かに光を宿している。
白い服の裾が、雨上がりの風にひらめいた。
彼女はゆっくりと近づき、まっすぐにハレルを見つめた。
「……あなた、観測者ね。」
その一言が、世界の中心に落ちたような気がした。
「な、何を……?」
ハレルが言葉を探す間に、少女はほんの少しだけ首を傾げた。
「名前はセラ。ここでは、案内人をしているの。」
声は澄んでいて、どこか機械的でもあった。
それでいて、不思議と冷たくはなかった。
ハレルの胸の奥がざわめく。
この少女――どこかで、見たような気がする。
セラは視線を上げ、曇天の向こうを見つめた。
「あなたが現れた瞬間、この世界が揺れた。
“観測者”が入った記録は、決して消せない。」
「観測者……?」
その言葉が何を意味するのか分からない。
だが、彼女の表情は本気だった。
セラはわずかに微笑み、背を向けた。
「来て。あなたに見せたいものがある。」
そう言って歩き出す。
ハレルは躊躇いながらも、その後を追った。
遠くでまた、鐘が鳴る。
その音が、異世界の空気を震わせていた。
――“観測者”。
その言葉の意味を、ハレルはまだ知らなかった。
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