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夕陽が傾き、王都イルダの石畳が赤く燃えていた。
セラは言葉少なに、迷路のような路地を迷いなく進む。
屋根の上を渡る風は乾いていて、どこか金属の匂いが混じっている。
「この先に、“それ”がある。」
振り返った彼女の青い瞳に、灯りが小さく映った。
丘を見上げれば、白い塔――行政庁が夕闇の輪郭を切り取っている。
大臣アルディアが倒れた、と号外が告げた場所。
「入れるのか」
「“観測”の隙間からなら。」
意味を問う前に、セラは門の陰に身を寄せた。
正門の前には銀の鎧の衛兵が四人。封蝋の札には「王国警備局 管轄下」。
人払いの札の周囲に、微細な光の粒が漂っている――境界だ。
セラが低く囁く。
「声を出さないで。呼吸は浅く。」
彼女の指先が空気に触れると、透明な薄膜がさざ波を立てた。
波紋の縁をなぞるように、二人は門柱と塀の間の狭い影へ滑り込む。
衛兵の視線は確かにこちらを掃いているのに、焦点が合わない。
(見られているのに、見えていない……“視界の死角”を作った?)
中庭は静まり返っていた。
沈む陽に押し出されるように夜が迫り、噴水の水面だけが薄く光を返す。
セラは迷わず西翼の廊下へ。重い扉に触れた指先で、鍵内部の金属音が“書き換えられ”、閂が外れる。
「ここだ。」
廊下の中央に、円を描くような黒い焦げ跡。
倒れた燭台。壁に残るすす。
だが――血の臭いが薄い。鉄っぽさより、焦げた空気と、わずかなオゾン。
ハレルは膝をつき、痕跡を目で拾う。
焦げ円の外縁は滑らかで、中心ほど石が“泡立って”いる。
(火ではなく、瞬間的な高エネルギーで表面が膨張――“焼け”というより“転位”に近い)
燭台は床に横倒し。芯は燃え尽きず、蝋が流れて固まっている。
(急激に強風か衝撃。しかも一方向ではない。蝋の流れが二方向……矛盾)
壁の布飾りの裾に、細い切り跡。
指先でなぞると、糸の端に黒い粉が付いた。
ハレルは白いハンカチを広げ、粉を軽く包む。
「黒煙じゃない。……金属粉?」
目線を下げ、焦げ円の“外”に淡い斑点――乾いた血痕。
(中心に血はないのに、外に飛沫。倒れたとされる位置と、血の起点が合わない)
焦げ円の縁に、靴の踏み潰し跡。つま先が“外”へ向いている。
(ここで倒れたなら、つま先は内側へずれるはずだ。……ここは“倒した”場所ではない)
「ハレル」
セラの声は静かだ。「何が見える?」
「ここは“死んだ場所”じゃない。死んだように“見せるための場所”。
――血の主は円の外から弾かれている。焦げは演出、あるいは転送痕。
燭台の蝋の流れが二方向なのは、同じ瞬間に“二つの風”が通ったからだ。」
「二つの風?」
「視点が二つ。観測の筋が干渉した……って言えば、納得する?」
セラの瞳に、微かな光が宿った。「続けて」
ハレルは周縁の足跡を追う。
衛兵の重い靴跡に混じって、踵の摩耗が少ない軽いブーツ跡――若い体重。
その軽い足跡は焦げ円の手前でいったん止まり、そこから“後ろ向きに”数歩下がっている。
(臆した? それとも、見せかけるための“位置合わせ”……)
壁際の欄干には、指先の脂の擦れ。高さは肩より少し下。
(ここに身を隠し、廊下の中央を“見せた”誰かがいる)
視界の端、カーペットの毛足に一本だけ異物――極細の光る繊維。
摘まむと氷のように冷たい。
(制服の繊維じゃない。合成? この世界の織りとは違う)
ハレルは首元のネックレスに触れる。
父が最初にくれた、小さなカメラ。レンズを指先で覆い、光量を調整して斑点と繊維を撮る。
シャッターは無音、代わりにわずかなバイブだけが喉元を震わせた。
「誰か来る。」
セラが顔を上げた。
遠くの曲がり角で、鎧の金具が打ち鳴らされる。
低い怒号。
セラは壁側の陰にハレルを押し込む。
「ここはもう長く持たない。観測の隙間が閉じる。」
足音が近づく――四、いや六。
光が差した瞬間、セラが囁く。「動かないで。今は“見えない”。」
衛兵が廊下を横切り、焦げ円の縁で足を止めた。
「……また誰か入った形跡があるぞ。」
鋭い嗅覚。彼らの視線が、燭台の蝋、布の切れ、毛足の乱れへ順番に滑る。
ハレルは息を詰める。(見えていない。けれど、痕跡は消せない)
そのとき――
「待て。そこにいるのは誰だ!」
背後。
別動の衛兵が、ふいに“こちら側”を真っ直ぐ見た。
セラが一瞬、眉をひそめる。
「……観測耐性がある。」
ハレルの胸が跳ねた。
次の瞬間、鋼の靴音が一斉にこちらへ殺到する。
セラが袖を掴み、反対側の廊下へ駆け出した。
角をひとつ、ふたつ。
背後で剣の柄が抜かれる音、短い号令、金属が石を擦る高い音。
「出口は?」
「東側の非常扉。でも――」
曲がり角の向こう、衛兵がすでに包囲していた。
彼らの視線がハレルの胸元をとらえ、鋭く細まる。
「貴様、その制服……大魔導士リオと同じだな!」
喉が凍えた。
――致命的な一致。
(“リオの仲間”と決めつけるには十分)
「俺は違う! 説明を――」
伸びてきた手甲が肩を掴む。
セラが一歩踏み出しかけたのを、ハレルはわずかに首を振って制した。
(ここで彼女の“異常”を見られるのは悪手だ。俺は、話して時間を稼ぐ)
「待ってくれ。現場の矛盾を見つけた。焦げ円と血の配置、燭台の蝋の二方向の流れ――
ここは“殺害現場”じゃない。偽装だ。俺はそれを確かめに来た。」
先頭の隊長格が一瞬だけ眉を上げる。
(今だ。迷いの針を動かせ)
「お前たちの記録と現場の痕跡は食い違っているはずだ。
倒伏方向が壁際になっているなら、なぜ廊下中央に転位痕がある?
血の初発は円の外側だ。――“見せるため”に組まれた舞台だ。」
小さな動揺が隊列を駆け抜けた。
だが刀身の先は、なおこちらを向く。
「……だから貴様は現場を荒らしたのか!」
「荒らしてなど――」
言い終える前に、背に重い衝撃。
別の兵が押し倒し、手枷が鳴った。
セラが一歩踏み出す。衛兵の数が一斉に彼女へ向き、殺気が跳ね上がる。
「動くなッ!」
石の床に頬が触れ、砂の味がする。
腕を後ろにねじ上げられ、金属が皮膚に食い込んだ。
セラが視線だけで合図する。『今は、耐えて』
ハレルは小さくうなずいた。
ここで彼女を“異常な存在”として確定させたくない。
(僕は観測する側だ。語るのは、後でいい)
「リオの仲間、拘束!」
「王国警備局へ移送する!」
立ち上がらされ、視界が揺れた。
鏡の奥で、セラだけが静かにこちらを見返していた。
口の形が、音にならない囁きを作る。
――記録は、消えない。
その意味を咀嚼する前に、頭巾が被せられた。
世界の光が奪われ、音だけが遠のいていく。
連行の足音。鎧のぶつかる乾いた音。
胸の奥で、推理の断片がまだ熱を保っていた。
焦げ円は、転送――あるいは“観測の衝突”。
血は外側、燭台は二方向、繊維は異質。
被害者は別の場所で倒れ、ここで“見せられた”。
(リオ――君はどこで、何を見た)
覆面の向こう、夜風の匂いがかすかにした。
そして、階段を降りる感触。
暗い底へと連れていかれる最中、ハレルは心の中で静かに線を結ぶ。
偽装。二つの風。外の血。異質な繊維。
――“誰かの手”が、記録(ログ)に触れている。
僕は必ず、そこに指を置く。
その約束だけを握りしめ、闇へ沈んだ。