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「俺、二十七歳まで童貞だったんです」
「――はい?」
続けざまのカミングアウトに、素っ頓狂な声が出てしまった。
「初めて出来た恋人は、三歳年下の大人しいお嬢様タイプでした」
「はぁ……」
どうリアクションしていいのかわからずにいる私を尻目に、戸松さんは真剣な面持ちで続ける。
「手を握っただけで顔を赤らめる女性で、勝手に彼女にも男性経験がないと判断してしまいました。が、その判断は大間違いでした。ホテルのスイートルームで、俺は正直に自分に経験がないことを伝えました。そうしたら、彼女は嬉しそうに笑って、『大丈夫です』って言ったんです」
彼は眼鏡を外し、ふぅっと息を吐いた。
眼鏡を外すと、勇太に似ている。
「彼女は処女どころか、かなりの熟練者でした。俺は彼女にされるがまま、童貞を卒業しました。ですが、彼女に抱いていた幻想が打ち砕かれたショックと、それに相反して初めてのセックスの興奮に動揺し、しばらくは何も手に着きませんでした」
何が言いたいんだろう? と思いながら、私は梅酒を味わっていた。
仕事柄、話を聞くことには慣れている。
この美味しい梅酒がなかったら、途中でその話の意図を確認したかもしれないけれど、彼の昔話がどこに行きつくのかに興味がないわけでもなく、私は黙って聞いていた。
「悶々としていた時、あなたに出会いました」
突然の振りにむせかけて、梅酒が鼻から出そうになった。
「家に遊びに来たあなたは、紹介するのを面倒がった勇太に代わって、自己紹介をしてくれました。俺のあなたへの第一印象は『とてもしっかりした、礼儀正しいお嬢さん』でした」
「はぁ……」
私はうろ覚えだが、勇太のお兄さんはやたら真面目で厳しい人だと聞いていたから、最初が肝心だときっちり挨拶をした記憶はある。
「それから、勇太に嫉妬しました」
「嫉妬?」
「はい。俺はつい最近、ようやく初めての恋人が出来て、けれど思っていたような女性ではなくて、初セックスも散々で。なのに、勇太は高校生のクセに可愛い恋人がいて、両親にも可愛がられて、ずるいと思いました」
あれ? と思った。
勇太からは、両親は兄ばかりに期待をして、自分のことは顧みないと聞いていた。
「俺も学生時代に遊び心を持っていれば、二十七歳にもなって女性に翻弄されることもなかったのにと、落ち込みました」
戸松さんはグラスをグイッと傾け、ゴクゴクと梅酒を流し込んだ。結構アルコール度数は高いから、こんな飲み方をしたら、すぐに酔ってしまう。私は部屋の受話器を上げて、梅酒のお代わりを二杯と、ミネラルウォーターを注文した。冷たいおしぼりも。
「気持ちを立て直すことが出来ず、研究も思うような成果が上がらず、高校生の勇太に八つ当たりしてしまったこともあります」
あ、これは面倒臭い流れだ。
このままだと、戸松さんの思い出したくない過去の話は、彼を悪酔いさせた挙句、なんの落ちもなくフェードアウトするだろう。
流れを読んで、話が脱線しないように軌道修正するのも、仕事だ。
「お付き合いしていた彼女とはどうなったんですか?」
「何度か、手解きを受けました。彼女は俺が金持ちで、女性に不慣れだと思って近づいたそうです。最初のセックスの後で、言われました。確かに、彼女との出会いは――」
「要するに、セフレってことですか?」
彼女との出会いから懇々と聞かされると察して、私は言葉を遮った。
「そう……ですね。いや、指導を受けていたんです。彼女の望む三十万ほどのブランドバッグを渡し、俺はセックスの指導を受けました。一歩間違えると売春のようにもなりかねないが、バッグはあくまでも謝礼ということで――」
「お礼は大切ですよね」
「はい。とにかく、セックスにおいてある程度の経験をもち、その後は研究も忙しくなったので恋愛とは遠ざかっていました。ですが、あなたのことは街で何度か見かけていました」
話が長いだけで、話の意図は見失っていないようだ。
「五年ほど前、恩師の勧めである女性と交際しました。雰囲気があなたにとてもよく似ていました。髪が長く、艶があって、礼儀正しく、聞き上手だった。一年ほど交際して、俺は彼女にプロポーズしました。彼女は喜んでくれましたが、一つ条件を出されました」
「条件?」
「はい。ブライダルチェックを受けること、です」
要するに、生殖能力に問題がないかの検査。
「彼女は一人娘で、早く、たくさん子供が欲しいと言っていました。結婚後に不妊がわかって離婚した知人がいるとかで、彼女も彼女の両親も、結婚前に診断を受けることを強く希望していました。その結果、俺の無精子症が分かったんです」
ドアがノックされ、梅酒とミネラルウォーター、冷たいおしぼりがテーブルに置かれた。
「こんな話をしながらで申し訳ないのですが、冷めないうちに食べましょう」
そう言って、彼はピッツァを口に運んだ。私も。
既に冷めかけていたが、美味しかった。
「それが原因で破談、ですか?」と、私は何でもないように聞いた。
重く受け止めすぎるのは、彼の望むことではないと思う。私もそうだから。それに、私の方の事情を知っているのなら、同情を誘うつもりもないだろう。
「当然ですよね」
「残念でしたね」
「……はい」
「だから、私と付き合いたいんですか?」
「……理由の一つではあります」
「正直ですね」
戸松さんが、ハハッと笑った。
先ほどの穏やかな微笑みとは違う。子供みたいに顔をクシャッとさせた笑顔。
勇太とは違う、笑顔。
「交際したいと思っている女性に話すことじゃないですよね。けど、うん。これが俺なんです。女性を巧く口説くことも出来ないけど、嘘や誤魔化しも言わない」
本当に、正直で真っ直ぐな男性なんだと思う。
勇太から聞いていたお兄さんのイメージとはずいぶん違うけれど、私は目の前の彼が作られたものだとは思わない。
少なくとも彼は、弟のように不貞を良しとする人間でも、妊娠できない私をセックスの対象にしか見ないなんてことをしないだろう。
たった小一時間一緒にいるだけだが、私は彼にある種の安心感というか、信頼感を持ち始めていた。
最初に戸松さんが言った『好感』と、同じかもしれない。