午後。
家の中は少し眠たかった。
誰かが洗濯物を畳み、
誰かがソファでうたた寝している。
俺はリビングの端に座っていた。
膝の上に、何もない。
妖怪たちは今日は近い。
テレビの裏。
カーテンの影。
テーブルの脚。
___邪魔じゃない。
それが分かる。
テーブルの上にマグカップがあった。
白くて、少し欠けている。
誰のものでもない。
でも、いつも使われている。
それを見ていた。
「……」
喉がきゅっと鳴る。
欲しい。
思った瞬間、怖さが来る。
奪う。
怒られる。
返せと言われる。
手が、動かない。
そのとき。
「それ、使う?」
LANが画面から目を離さずに言った。
質問。
決定じゃない。
俺は首を振る。
「……違う」
声が小さい。
いるまがちらっとこちらを見る。
こさめは、嘘を見ていない。
誰も追わない。
沈黙が少しだけ続く。
俺は、マグカップから目を離さずに。
「……あの」
心臓が、
うるさい。
「……それ」
一度、
息を吸う。
「……ほしい、です」
言えた。
部屋の時間が止まった。
でも、
「いいよ」
すちがすぐに言った。
理由も、条件もない。
「それ、もう君の」
マグカップが、前に置かれる。
手が震える。
触っていいか、分からない。
こさめが静かに言う。
「こさ、嘘見えない。
あげるの本当」
そっと触れた。
熱はもうない。
でも、
胸の奥が、少しだけ熱い。
「……ありがとう」
今度はちゃんと、言えた。
「どういたしまして」
それが当たり前みたいに、そこにあった。
妖怪がマグカップの縁に座る。
___いい家だな。
俺はそれを聞いて、小さく笑った。
夕方。
西日の色が部屋の中をゆっくり動いていた。
自分のマグカップを持って、窓際に座っている。
“自分の”
まだ、少しだけ不思議な言葉。
妖怪たちは今日はよく喋る。
声というより気配に近い。
壁に溶けた影がふと、こちらを向いた。
___おい。
低く、ざらついた声。
驚かなかった。
もう、ここでは驚かなくていい。
「……なに?」
小さく返す。
___お前、ここにいるんだな。
確認みたいな声。
「……いる」
言ってから、胸が少しだけ跳ねる。
“いる”
って、自分で言った。
妖怪は満足そうに頷いた。
別の妖怪がテーブルの脚から顔を出す。
___名前
短い言葉。
一瞬、固まった。
名前は呼ばれるものじゃなかった。
怒鳴られるか、突き飛ばされる前の合図。
「……ひま、なつ」
途切れ途切れに、そう言う。
妖怪は首を傾げた。
___違う
否定。
でも、冷たくない。
___お前の、ちゃんとしたやつ
暇72は、考える。
“ちゃんとした名前”
誰かが、そう呼んでくれたことはあっただろうか。
少し離れたところで、いるまがこちらを見る。
LANは、考えすぎていない。
すちは、触れない。
みことは、見ていない未来を尊重している。
こさめは、嘘を見ていない。
だから、
「……暇72」
数字まで含めて、はっきり言う。
妖怪は少し黙ってから。
___暇72
音を、確かめるみたいに。
___覚えた
その瞬間。
胸の奥で、何かがすとんと落ちた。
呼ばれた。
怒られずに。
条件もなく。
「……呼んだ?」
思わず、聞いてしまう。
___呼んだ
当たり前みたいに。
___ここにいるやつの、名前だから
マグカップをぎゅっと持つ。
「……そっか」
それだけ言う。
妖怪は満足そうに、影に戻っていった。
その様子を、誰も止めない。
誰も、説明を求めない。
ただ、
家の中に、名前が一つ増えただけ。
窓に映る自分を見る。
まだ、小さい。
まだ、怖い。
でも、
___消えてない。
ちゃんと、ここにいる。
その夜、
妖怪はもう一度、名前を呼んだ。
静かに。
やさしく。






