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いくら冬が終わったとはいえ、さっきまで滞在していた沖縄の気候とは違い、やはりジャケットを羽織るだけではまだ肌寒いい。まあ、当たり前だけど。
「ダメだ、クッソ寒い……早く家に帰ろう」
そんなことを独りごちりながら、俺は駅からほど近いアパートへと足早に向う。先程までいた、沖縄での出来事を思い返しながら。別に旅行で行ったわけではない。あくまで仕事だ。なんの仕事かって? 俺の仕事はボイストレーナーだ。そこに住む十九歳の女性から依頼があったのだ。声の出し方について、つまりは歌声のコツについて、それらを指導してほしい、と。そんな依頼内容だった。
俺が住んでいるのは千葉県だけれど、依頼者の住んでいる場所なんて関係ない。どんなに遠かろうと俺は行く。飛んでいく。それが俺のポリシーだ。
「着いたはいいけど、相変わら酷え部屋だな……」
玄関の鍵を開けて部屋に入ると、少しばかりの溜め息をついた。この1Kの狭い一室は、希望と絶望が交差する異様な雰囲気に包まれている。研究資料やタバコの吸殻で埋め尽くされたデスク。部屋中に散らばる公共料金やカード支払いの請求書。いつ着たのか覚えていない、脱ぎ捨てられた洋服の数々。
「さすがに片付けないといけないが、面倒くせーな」
しかし、片付ける云々の前に、俺はどっと疲れが出てしまい、疲労感が俺を支配した。知らず知らずの間に仕事中、だいぶ気を張っていたらしい。
とりあえず少し休もうとベッドに横たわる。そしてふと、目線を上げて天井を見やった。そこに貼り付けてある一枚の紙が視界に入ってきた。その紙には『一年後の自分! 日本全国を飛び回る大人気カリスマボイストレーナーになる!』と、汚い文字で力強く刻まれていた。
ボイストレーナーとして生きていこうと決意をしたあの日から、もう一年が過ぎようといた。その一年という年月は、俺の心にあまりにも色濃く残っている。充実すぎる程に充実した時間であり、そんな毎日だった。
しかし、『まだ一年しか経っていないのか』と思えてしまうのも事実だった。
有言実行と言えばその通りだけれど、それはあまり言葉にしたくない。単純に気恥ずかしい。
とはいえ、俺は今では全国を飛び回るボイストレーナーになっている。これは揺らぐことのない真実だ。
思い返せばこの一年で、俺は色々な所へ行ってきた。北海道から沖縄、大阪、山口、挙げていけばきりがない。一人の無名な男が、ひとつの決意をきっかけに、まるで奇跡の様な一年を駆け抜けてきたのだ。
と、この話だけを聞けば、きっと素晴らしい結果だと言ってもらえるだろう。素晴らしい人間だと思ってもらえるだろう。しかし、現実は決して輝かしいものではなかった。
確かに俺は高い志と熱い情熱を武器に、声に悩む人々に全力で向き合ってきた。その姿勢は自分でも認めている。
だがしかし。人間というものは必ずと言って良い程に二面性というものを待ち合わせている。もちろん、俺も例に漏れず。俺のもう片側の一面は、夜な夜な酒に明け暮れるという、だらしのない性格だ。その一面によって、俺はいつも金に困らされていた。
依頼をこなして得たお金のそれ以上を、その日の内に飲み屋に落としてくる。そんなものはもう日常茶飯事だ。それが原因で、月々の支払いが滞る始末。クズだ。クズにも程がある。
自業自得なのは十分に理解はしているつもりなのだが、不治の病にでも患ってしまったかのように、使い果たす。
「俺は馬鹿かよ……」
今日稼いだ金額も、滞納している電気代やガス代、インターネットの通信費を支払えば、すぐに消えてなくなる。
努力を惜しまない俺の足を、いつだって、だらしのない『平良一徳』が引っ張っていた。理想の姿になることを自分自身で邪魔をするなんて、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。このままでは駄目だと解っている。しかし、抜け出すどころかどんどん深みにはまる。泥沼だ。欲望に支配された底無し沼だ。
重く深い溜め息をつきながら、俺は煙草に火を着けた。その時である。デスクの上でスマートホンが騒がしく暴れだしたのだ。画面を覗くと友人の大木武志からの着信だ。平良はすぐに応答した。
「おー平良! お疲れ様! 今さ、仕事でちょうどコッチに来てるんだけど少し会えないかな? 時間が空いちゃって暇なんだよ。どうせ平良も暇なんだろ?」
勝手に決めつけるなよ、と。そう思った。しかし、大木の読みは大正解。疲れもあるし、俺はこのまま仮眠をしようと思っていた。しかし、暇でもあった。だが、認めてたまるかと、小さなプライドに火がついた。
にしても。大木の声も相変わらずだな。常に明るい。それに生き生きとしている。まあ、当然か。
何故なら大木はファイナンシャルプランナーの資格を武器に、個人事業主という立場から多くの人の人生設計を手伝う仕事をしている。成功している。だからこそ、それが声に表れているんだろう。
ちなみに。大木は俺の親友であり、過去に組んでいたバンドメンバーでもあった。人生をかけた時間を共にし、そして青春を捧げた相棒でもあるのだ。
「それが暇じゃないんだよ。さっき沖縄から戻ってレッスン内容をまとめているところでさ。まあ、あと三十分もあれば終わるんじゃないかな」
嘘である。本当は、飛行機の中で既にまとめ終わっているのだ。
「了解! それじゃー駅前のいつものカフェで待ってるから来てよ! 頼むねー!」
そう言い残して大木は電話を切った。
「まあ、いいや。さっさと行こう」
どうして三十分後ではなく今すぐ向かおうとしているのかと言うと、誰かに会っていないと思考回路が悪い方向へと落ち込んでしまいそうだったからだ。それが目に見えていたからだ。なので、本音を言うと大木からの誘いは有り難かった。
脱ぎ捨てられて間もないジャケットを羽織り、俺は小走りで約束のカフェへと向かった。全く時間も経たずに到着してしまうわけだから、『そうして予定があったにも関わらず、こんなに早く到着出来たのか』という言い訳を考えながら。