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Side 慎太郎
持っていたメモ用紙と、目の前の建物を見比べる。
確かに地図はこの場所で合っている。そして小さな看板に書いてある「睦石荘」という名前も合っている、はず。
「本当かなぁ…」
この建物は、見ようによっては宿のように見える。でも立派な造りで、高級そうだ。
とても「家」のようではなかった。
俺はポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認する。先方に伝えた時間ぴったりだ。うなずき、門を抜けた。
石畳を踏み、玄関の戸に手をかける。ガラガラと音がして、広い土間が現れた。
正面の奥には、背の高い振り子時計があった。硝子の中で、金色の振り子が規則的にゆらゆらと揺れている。
「ごめんくださーい。森本です」
中に向かって呼びかけてみると、「はい」と声がして、やがて藤色の着物を着た若い女性がやってきた。
「こんにちは。森本さまですね、お待ちしておりました。遠いところからお越しでお疲れでしょう、どうぞ居間でお休みになってくださいな」
ありがとうございます、と答える。どうやら合っていたようだ。
笹倉千代子さん、という名前はもらった手紙で知っていた。
居間に通されると、椅子に腰を据える。トランクとステッキを傍らに置いた。
出してもらったお茶をすする。
「あの、ここは共用の部分なんですか?」
「ええ。ここや隣の台所、お風呂などは共用です。あ、近くには銭湯もありますよ。入居者募集の紙には、『共用部分が多い』と書きましたが…もう少し詳しく書くべきでしたかね」
とんでもない、と首を振る。
「あとひとりだけ入居されている方は、ずいぶん前からいらっしゃるんです。この間の戦争にも行かれていたようで。私としては、心配でたまらなかったんですけれど」
戦争という言葉を聞いて、ぎくりとした。もう思い出したくなかったのに。
すると、居間に誰かがやってくる気配があった。
顔を向けると、入口に着流し姿の男性が立っていた。少し長めの黒髪で、銀縁眼鏡をかけている。
「あら、ちょうどいいところに。ご紹介しますね、こちら松村北斗さん。『葵の間』に住んでらっしゃいます」
どうも、とその人は頭を下げた。凛とした涼やかな顔立ちだ。
「初めまして。今日からここに越してきた、森本慎太郎っていいます」
松村さんは「よろしくお願いします」と微笑んで去っていった。
「じゃあお部屋にご案内しましょうか。森本さんは『椿の間』です」
千代子さんについていくと、廊下を抜けた先にある客室で止まった。
襖の上には、「椿の間」と書かれた木札がある。
「もしかして、ここって宿だったんですか?」
尋ねると、振り返ってにこりと笑う。
「ええ。以前は『睦石旅館』という宿泊施設だったんです。それを、周旋屋を営んでいた義父が買い取って貸し家にしたそうで。今は夫と私で継いでいます」
そうなんですね、とうなずく。
中は確かに、旅館時代の面影を感じる。
奥の縁側から見える庭が、とても風情があって素敵だ。
「綺麗。こんないい部屋なのに、あんな安いなんて」
「古い建物ですから」と微笑む。
トランクケースを床に置くと、
「もし、移動や段差などでご不便があればおっしゃってくださいね」
と言ってくれた。無論、俺の足を気にしてのことだろう。
あの戦争で遠い地で右足を撃たれてから、歩くのには杖がいるようになってしまった。
「ではまた何かあればいつでも。私は玄関を出て右隣の家に住んでおりますので、尋ねていただいても結構です。それか、松村さんに訊いてみてください」
ごゆっくり、と一礼して出て行った。
改めて、部屋の中を見まわす。落ち着けそうな空間だ。
ここから俺の新しい生活が始まるんだと思うと、すっきりとした清々しい気分だった。
続く