Side 北斗
朝起きて朝食を済ませると、そのまま台所で珈琲を沸かす。しばらくやっていなかったが、いつもの習慣だ。
サイフォンにお湯と粉をセットし、火にかける。砂時計をひっくり返したあと、自室から読みかけの文庫本を持ってきた。
夏目漱石の「こゝろ」。漱石で好きな作品のひとつだ。
それを開いたところで、入り口で物音がした。顔を向けると、昨日来た新しい入居者。確か森本さんと言った。
「おはようございます、松村さん」
「…おはようございます」
森本さんは既に着替えたのか、サスペンダーつきのパンツにシャツという出で立ち。昨日は杖を持っていたが、今はない。柱に手をついている。
体格がしっかりしていて、兵士のようだ。
「よかったら、珈琲ご一緒にどうですか」
そう言うと、森本さんはぱっと嬉しそうな顔になった。
「いいですか?」
もちろん、と立ち上がって椅子を勧める。せっかく来てくれたたった一人の同居人だ。元来、喋るのは嫌いではない。
歩くとき、彼は右足をわずかに引きずっていた。もしかしたら退役軍人なのかもしれない。というか、俺もそうだった。
もう一つのカップを取り出し、静かに注ぐ。
「ミルクは入れますか」
「お願いします」という声を受けて、冷蔵庫から牛乳瓶を取り出した。
「…お好みのほうがいいですよね。どうぞ」
「ありがとうございます」
カフェ・オ・レにすると、一口含んでにこりと笑う。
「美味しい。喫茶店みたいな味です」
「本当ですか」
俺もつられて笑顔になった。
「それ、何ですか?」
指さされたのは、俺が持っている本だ。
「ああ、夏目漱石の『こゝろ』っていう小説です」と表紙を見せる。「いい本ですよ。数年前に亡くなってしまったのがものすごく残念ですが」
「え、そうなんですか?」
驚いて目を丸くする。
「胃弱がたたったようで、執筆中の作品が遺作になってしまって…。でも最近は森鴎外や武者小路実篤も流行っているし、芥川龍之介もおもしろいですよ」
と言うと、森本さんは苦笑する。
「すごい詳しいですね。僕は文学はさっぱり…」
「そうですか。森本さんは、何がお好きで?」
彼は少し考えたあと、「活動写真、ですかね」と答えた。
「戦争に行く前は、浅草六区に行ってよく観ていました。俳優は特に尾上松之助さんが好きで。あ、でも最近、浅草オペラとかいうのが流行っていてい人が多かったんですよ。安くて面白いとか。一回そっちも見に行ってみたいとも思っているんですが」
今度一緒に行きませんか、と訊かれて俺はうなずく。やっぱり軍人だったんだ。
でも、何だか楽しそうだな。
目の前で笑顔で喋っている彼を見ながら、そう思った。
続く