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私はぼんやりとした頭で浴室から出た。火照っているのは、お風呂で温まったからだけじゃない。大切なものを扱うような手つきで彼に全身を撫でるように洗われ、その腕の中に抱かれながら湯船につかり、耳元で甘い声で囁かれ続けたせいだ。
おかげで体中に疼くような余韻が残っている。そのもどかしさを持て余しながら、私は借りたバスタオルを巻いて髪を乾かしていた。
先に出ていた矢嶋が着替えだと言って、ルームウェアを持って戻ってきた。前回借りたものと同じもののようだ。
脱衣所の籠に置こうとしていた彼の動きが止まった。
ドライヤーを置いて振り返ると、彼は眩しげに目を細めて私を見ていた。
「矢嶋さん……?」
見られていることに恥ずかしくなり、そっと声をかけた。
彼ははっとしたように瞬きし、戸惑っている私の目の前までゆっくりと近づいてきた。私の頬に手を伸ばして撫で始める。
「なぁ、夏貴。さっきのだけじゃ全然足りない。もっともっとお前に触れて、これが現実だってことを実感したい」
艶めいた矢嶋の声にぞくりとした。浴室でのことを思い出して心臓が早鐘を打ち出す。一度落ち着いたはずのもどかしいような疼きが、全身にじわりと広がり出すのが分かった。
「夏貴、お前がほしい」
指先で胸元につと触れられて、吐息がこぼれかける。それを飲み込んで、私はただ黙って矢嶋の体にぎゅっと腕を回した。
「俺でいっぱいになるくらい、お前の全部を愛させて」
矢嶋もまた私を抱き締めて囁いた。
まるでドラマのような甘い台詞に酔いそうになる。
矢嶋は私の体を抱き上げて額にキスを一つ落とすと、寝室へと向かった。ベッドの上に私を下ろして電気を消す。カーテンの向こう側から月の光が差し込み、部屋の中はぼんやりと明るかった。その中で裸になった彼は、私の体からバスタオルを滑り落とした。
私は彼の匂いに包まれながら、彼の甘すぎる声と熱い口づけ、そして優しすぎる手のひらと指先に愛された。これでもかというほど蕩かされて、吐息と鳴き声を抑えきれない。
「夏貴、好きだ。俺の夏貴」
何度も名前を呼ばれ、愛の言葉を囁かれ、その度に甘美な想いに満たされた。彼に愛されていること、そして自分もまた彼を愛していることを、体の奥深いところと心の底でひしひしと感じる。
満ち足りた思いで彼の傍らに体を寄せていると、私の肩を撫でていた矢嶋がおもむろに口を開いた。
「なぁ、夏貴。お前って、いつまでうちの局にいられるんだ?」
矢嶋の言葉に、急に現実に引き戻された。そんなことを言い出した彼に苛立つ。
甘い余韻にもっと浸っていたかったのに――。
しかしため息を一つだけ小さくついて、私は彼の問いに答えた。
「どちらかがもう終わりと言うまで、かな。半年契約で、自動更新のような形になってます。契約社員っていう可能性もあるらしいんですけど、それを口にするのはまだ早いのかなって」
「ってことは、夏貴はうちで働き続けたい感じか?」
「そうですね、できれば続けたいかな。ここの仕事ってやりがいがあって楽しいから。でも正社員の口があれば、そこに行きたいなとは思います。現実はなかなか難しいんですけどね」
「夏貴の実家って、俺と同じM県だっけ?この先地元に戻る予定はあるのか?」
「今のところは、ないですね。余程のことがあれば考えなきゃいけないかもしれないけど。私、こっちで働き続けたいって思ってるんです。それに、正直言うと、実家にはあまり帰りたくないから……」
矢嶋ののんびりとした口調に釣られたように、つい口を滑らせてしまう。訊ねられた訳でもないのに、私は話を続けた。
「私が高校生の時に父が再婚して、義理の母がいるんです。彼女と仲が悪いわけではないんですよ。なんて言ったらいいのか……。なじめないというか、互いに気を遣うっていうか、気づまりっていうか。私がいない方が、二人も気楽だろうし。それに、二人が仲良さそうなのを見ると、なんだか寂しい気持ちになるっていうか。別に二人から放置されてるとか、無視されているっていう訳じゃないんですけど……」
「そうだったのか」
矢嶋の静かな相槌にはっとする。私の実家の事情など、彼には興味のないことだろう。
「ごめんなさい。つまらない話しちゃいました」
「全然つまらなくないよ。今まで聞いたことがなかった夏貴のことが知れて嬉しいよ。でも、そうか。それでなんとなく腑に落ちた気がする。学生の頃の夏貴って、笑っていても時折ふっと寂しそうな顔をすることがあったんだ」
「そうなんですか?自分では全然分かりませんでしたけど」
「夏貴のことは、ずっと見てたからな」
「ずっと?」
「そうさ。初めてサークルの部室を訪ねてきた時から、ずっとね」
私は顔を上げて彼の顔をまじまじと見た。
「最初から見てた、っていう意味ですか?」
「そういうことになるな。白状すると、いわゆる一目ぼれってやつだった」
矢嶋は照れたように笑い、私の視界を手のひらで覆った。
「あんまりじっと見ないでくれよ」
「だって、同じだから。ちょっとびっくりしちゃって」
「同じってことは、夏貴も?」
私もまた照れながら頷く。
「なんだよ、それ」
彼は私の顔から手を離し、苦々しく笑う。
「その時の俺たち、もしかしなくても両想いだったってことなのか?」
「そういうことになるんでしょうか。でもね」
私は拗ねた顔を彼に向けた。これまで彼から受けた不愉快なあれこれについて文句を言いたくなる。
「こうなるまでの矢嶋さんはいつも意地悪で、会えば私のことをからかってばかりだったでしょう?だから、嫌われてるって思ったんです。それでだんだんと苦手になっていったんですよ」
矢嶋は私の髪に顎を埋める。
「悪かったよ。本当にごめん。俺が最初から素直になっていれば良かったんだ。今までお前に嫌な思いをさせてしまった時間をなかったことにはできないけど、全部帳消しだって思ってもらえるくらい、これからはお前のことを大事にするよ」
「ふぅん?それって罪悪感ですか?」
嫌味をこめた私の質問に、矢嶋は苦笑する。
「そんなわけないだろ。これまでのことがなかったとしても、俺が大事に思うのは夏貴だけだ」
その言葉が嬉しくて、私は彼の胸に頬を寄せる。
「分かってますから」
彼は私の背を抱きながら話し続ける。
「俺はさ。嫁さんが仕事してても、家にいて好きなことしてくれていても、どっちでも構わないと思ってるんだ」
さっきとは違う話題に移ったようだ。「嫁さん」とは、またずいぶん唐突だと思いながらも私は彼の話に耳を傾け、相槌を打つ。
「へぇ」
「嫁さんにはいつも笑っていてほしいと思う。その人の気持ちとか意思を大事にしたい」
「ふぅん。矢嶋さんの奥さんになる人は、きっと幸せですねぇ」
「こら。ちょっと待て」
矢嶋が呆れた声を出した。
「なんで他人事なんだ?」
どうして彼が苦い顔をしているのか不思議に思う。
「なんでって……。だって、今のは世間話みたいな感じでしたよね?矢嶋さんの場合は、みたいな?」
「え……」
矢嶋は私の背を抱いていた手を離し、天井を仰いで目を閉じた。
「俺、自分ではトークがうまい方だと思ってた。だけどプライベートではこの程度か……」
彼が落ち込んだ様子を見せているのは、私の言葉の何かのせいらしい。けれど、その何かが分からない。
「あの、矢嶋さん?」
「下の名前で呼んで」
「彬、さん……」
「さん、はいらない」
「あ、彬……」
彼の下の名前を初めて口にして私は照れた。
しかし、彼――彬の方は、落ち込んでいたのが嘘のように嬉しそうな顔をした。
「いい響き。――なぁ、夏貴」
彬はごろんと私の方へ体の向きを変えた。
「夏貴って、俺の恋人になっただろ?」
改めて言われるとくすぐったい気分になる。私は彼から目を逸らしながら答える。
「そのつもりでいてもいいのなら」
「『つもり』じゃなくて、そうなんだよ」
彬はくすっと笑い、それからふっと真顔になった。
「さっきお前が世間話みたいって言ったあれ、夏貴のことを言ったんだからな」
「私のこと?」
「つまり、俺の将来の嫁さんはお前ってこと。結婚してからも、派遣だろうとなんだろうと好きなように働けばいい。もちろん、うちにいたっていい。どんな選択をするにせよ、これからは俺の傍をお前の居場所に、帰る場所にしてほしいんだ」
私は何度も瞬きをした。彼の突然の言葉に頭が追い付かない。
「嫁さん?」
彬の言葉を繰り返す私に、彼はにっと笑った。
「夏貴は俺の妻になる人だってこと。つまり、俺は結婚前提に付き合いたいと思ってる。それが嫌なら抵抗して」
彼は体を起こし、私の唇を塞いだ。
柔らかな彼の口づけを受け止めながら心の中で思う。
急展開で戸惑いがないわけじゃない。それでも、抵抗する理由はない――。
彬は唇を離し、私の意思を確かめるようにじっと見つめた。
「抵抗しないってことは、俺の妻になってくれるってことでいいのかな」
不安がまったくないとは言わない。けれど嬉しい気持ちがそれをはるかに上回っていた。
彼の手が私の頬に触れる。
「後日正式にプロポーズするから待ってて。今はただ、夏貴を愛したい」
これからは、意地悪な言葉ではなく愛ある言葉をたくさん聞かせてもらえるのかしらーー。
私は微笑み、キスを誘うように彬の唇に指を伸ばす。彼とのこれからを思い描き、胸の中には甘い期待がいっぱいに広がっていた。
(了)