テラーノベル
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矢嶋は私の背を抱きながら話し続ける。
「俺はさ。嫁さんが仕事してても、家にいて好きなことしてくれていても、どっちでも構わないと思ってるんだ。嫁さんの気持ちだとか意思だとかをいちばん大事にしたい」
ずいぶんと唐突な話題の転換に戸惑った。いったいなぜ急に「嫁さん」の話などし出したのか、その真意を測りかねながらも私は彼の話に耳を傾け、相槌を打つ。
「へぇ、そうなんですね」
「嫁さんには、いつも笑顔でいてほしいと思うんだよな」
「ふぅん。矢嶋さんの奥さんになる人は、幸せですねぇ」
「こら、ちょっと待て」
矢嶋が私の顔をのぞき込み、呆れ声を出す。
「なんでそんなに他人事なんだよ?」
「え?なんでって……」
彼が苦い顔をしている理由が分からず、私は瞬きを繰り返す。
「だって、今のは世間話ですよね?矢嶋さんの場合はこうだ、っていう」
「はぁぁ……」
矢嶋は大きなため息をつき、私の背に回していた腕を解いた。ベッドの上にごろりと仰向けとなり、目を閉じる。
「俺、自分ではトークがうまい方だと思ってたんだ。だけど、プライベートではこの程度だったなんてな……」
私の反応の何かのせいで、彼を落ち込ませたらしい。
「あの、矢嶋さん、私、何か変なこと、言いました?」
「俺のこと、下の名前で呼んでよ」
「え、いや、でも、それはまだ、ちょっと……」
「どうして?」
「どうして、って……。そうすぐには、なかなか……」
今までずっと「矢嶋さん」と呼んできた。いきなり下の名前で呼べと言われても、照れが先立つ。
「ほら、言ってみて。彬、って」
それでもまだ私はごにょごにょと口ごもる。
しばらく私の様子を見守っていた矢嶋だったが、不意ににやりと笑った。
「分かった。俺を、彬って呼んでくれるまで、こうすることにする」
「え?こうするって、何を……」
おろおろとして訊き返す私の頭に、彼は手を伸ばす。
「こうするってことさ」
言い終えるなり彼は私の耳に軽く歯を立てて、わざとくちゅくちゅと音を立てるようにしながら舌を這わせ始めた。
熱い吐息と熱い舌で耳を弄ばれて、頭の芯は痺れ、体の奥は疼く。我慢したくても我慢できない喘ぎ声が、私の唇からあふれた。
「あぁんっ!あぁっ!」
矢嶋はしばらくそのまま私を離さなった。
彼がようやく満足した頃には私はぐったりとしていた。
彼は私の頭を抱いていた手を緩め、喉の奥でくくっと笑う。
「夏貴の弱点は耳だよな。俺の名前を呼ぶまでこうするけど、いいよな?」
「な、何を考えてるんですか!」
私は荒い息を吐きながら文句を言った。
彼はくすくすと笑う。
「何って別に。ただ俺の名前をちゃんと呼んでほしいだけだよ。ほら、言ってみて。彬、って。早く言わないと……」
彬は嬉しそうに舌なめずりし、再び私の耳を口に含んだ。ぬるりとした感触に、私は声を上げる。
「あぁっ!」
これが続いたら身が持たない。私は彼の胸にしがみつき、熱に浮かされたような心地で彼の名前を口にした。
「あ、彬、彬、彬……っ」
彼はようやく私を解放し、嬉しそうに言う。
「いい響きだ。早く俺の名前、呼び慣れて」
全身から力が抜けてますますぐったりとした状態で、私は首を縦に振った。
「ところで、夏貴」
矢嶋――彬に呼ばれて私は身構えた。今度はいったい何を言い出すのかしらと生唾を飲み込み、彼を見上げた。
「夏貴って、俺の恋人になっただろ?」
改めて言葉にされるとくすぐったい気持ちになる。私はどきどきしながらこくりと頷く。
「そのつもりでいてもいいのなら、そういうことになりましたよね」
「『そのつもり』じゃなくて、そうなの」
彬は苦笑しながら私を抱き締め、真面目な声音で言う。
「さっき俺が言ったことを、お前は世間話だと思ったみたいだけど、あれは夏貴のことを言ったんだぞ」
「私のこと?」
「つまり、俺の将来の嫁さんはお前ってことだよ。これから先ずっと、俺の傍をお前の居場所に、帰る場所にしてほしいんだ」
彬の言葉に頭の回転が追い付かず、私はぼんやりとした目で彼を見た。彼の言葉を繰り返す。
「嫁さん……?」
「夏貴は俺の妻になる人だっていう意味だよ。つまりだ。俺はお前と、結婚を前提にして付き合いたいと思っている。夏貴はどう?もしもそれは嫌だっていうなら、俺に抵抗して」
彼はおもむろに体を起こした。私の意思を確かめるように、ゆっくりと顔を近づけて来る。
この急展開に戸惑わないわけじゃない。けれど、彼に抵抗する理由もなかった。だから、私は目を閉じて彼の柔らかな唇を受け止めた。
唇を離して、彼は私をじっと見つめる。
「抵抗しないってことは、俺の妻になることを承諾してくれたと思っていいのか?」
彼は私の返事を待っている。
「はい。私を大事にしてくれるんですよね?」
「もちろん。男に二言はないよ」
彬は私の頬に手を伸ばした。
「後日正式にプロポーズするから少しだけ待ってて。今はただ、夏貴を愛したいんだ」
私に向けられた彼の瞳は潤んでいた。
「……泣いてるんですか?」
ちょっとだけ意地悪な気分で訊ねながら、私は彼の頬に手を伸ばした。さっき散々私に意地悪した仕返しのつもりだ。
ところが彼は頷き、微笑む。
「あぁ、そうだよ。嬉しくて」
これまで彼から向けられた意地悪な表情や言葉を、一瞬で忘れてしまいそうになるほど、彼の笑顔と言葉はまっすぐで素直だった。
「夏貴、愛してるよ」
甘く囁く彬に応えて、私はキスを誘うように彼の唇に指を伸ばした。これからは愛ある言葉と態度で、今までの意地悪すべてを上書きしていってくれることを期待しているわと、囁き返しながら。
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