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「なにそれ、すご」
ダイニングテーブルの上で箱を開けると、ブレザー姿のまま足を組んでスマホゲームをしていた凌空が反応した。
「ブリザードフラワーだって」
得意気に鼻を鳴らす紫音に、
「プリザーブドでしょ。凍らせてどうする」
凌空は呆れ気味に笑った。
「preserved、つまり“保存された”って意味ね」
紫音より20ほども偏差値の高い高校に滑り止めなしで合格した凌空は、頬杖をつきながらその黒い薔薇を見つめた。
「んで?これどうしたの」
「お隣さんがくれたんだ」
そう言った瞬間、興味なさそうに対面キッチンの向こう側で大根を切っていた母が視線を上げる。
「ほら、ママも見て。特殊な染料をしみ込ませてあって、長持ちするんだって!」
「それって、高価なものなの?」
晴子の声が低くなる。
「ちょい待ち。ええとね。このレベルだとー」
凌空がスマートフォンをいじりながら黒薔薇を見比べる。
「こんくらいかな!11000円!」
そう言いながら母に画面を見せる。
晴子はそれをちらりと見てから包丁を置き、キッチンから回り込んできた。
「…………」
ガラスドームを持ち上げ、黒い薔薇をマジマジと見つめている。
「ーーなんでくれたの?」
「ああ、それはねー」
晴子の異様な空気に内心では慄きながら、紫音は気づかないふりをして明るく返した。
「城咲さんって、私の学校のそばのホームセンターの花屋さんで働いてるんだけど、それを知らずに画材を買いに行って、そこで偶然会って、これただのサンプルだからあげるって」
知らずに行って……。
偶然会って……。
ただのサンプルだから……。
―――嘘をついてしまった。
なぜかはわからない。
でも晴子にはそう言った方がいいような気がした。
理由はない。
直感だ。
「へえ。サンプルっつってもさ、こんな高価なものくれるなんて、お隣さんって姉貴に気があるんじゃないの?」
「…………」
ドームをクルクルと回していた晴子の白い手が止まる。
「そ、そんなわけないじゃん!だって婚約者もいるのに!私なんて、10歳くらいも年下なのに!」
必死で否定すると、
「冗談だよ。本気にしてだっさ」
凌空はそう言いながらスマートフォンをソファに投げ捨て、
「着替えてこよっと」
ブレザーのネクタイを緩めた。
(……あ)
その開いた首元に僅かだが確かに赤い発疹を見つけた。
違うかもしれない。
しかし、
そうかもしれない。
真偽などどうでもよかった。
この凍ったリビングの空気の責任を取ってもらう。
「ねえ、あんたの首元のそれって、もしかしてキスマーーー」
「返してきなさい」
弟の首を指さした紫音に、晴子は低い声で静かに言い放った。
「……え?」
「だから。明日この薔薇を城咲さんに返してきなさい」
話は終わったというようにそれをテーブルに置き、またキッチンに回ってしまった。
「なんで?嫌だよ。せっかくもらったのに」
「いいから。そんな高価なもの貰ったら、こっちだって何かお礼しなきゃいけなくなるでしょ」
晴子はそう言いながら切った大根を煮立った鍋に入れる。
「だから、サンプルなんだって。原価はその薔薇だけなんだって。だから気にしなくていいって城咲さんが!」
「引っ越してきたばかりのよく知りもしない男性からそんな高価なものを図々しくほいほい貰ってきたりなんかして、恥を知りなさい!あなたもう二十歳でしょ?」
「図々しくもらったわけじゃないもん。1回は遠慮したけど試作品だからいいって城咲さんが!」
「城咲さん、城咲さんって、あなたは城咲さんの何なのよ!」
「お隣さんだよ!!」
凌空は、必死に弁解する姉と聞く耳を持たない母を楽しそうに見比べた。
紫音はキッチンカウンターに手をついた。
「私は絶対に返しに行かない!そんなに嫌ならママが自分で返しに行ってよね!!」
「………!」
晴子が眉間に皺を寄せて睨んでくる。
どうしてこんなに睨まれなければいけないのだろう。
どうしてこんなに突っかかってくるのだろう。
何が彼女を怒らせたのだろう。
「なんだ。騒々しい」
と、いつの間に帰ってきたのか、父の健彦が立っていた。
「あなた!見てくださいよ。紫音がこんな高価なものをお隣からただで貰ってきたって言うんですよ?」
晴子はガラスドームを指さしながら言った。
「図々しいから返してきなさいっていったら反抗ばかりして!」
「――――」
紫音はまだ何も言っていない父をも睨んだ。
少しでも父が晴子の味方をしようものなら、バッグを持って出て行って、今日は兄のアパートに泊まらせてもらおう。
かえってその方がラッキーだ。
そんなことまで考えていた。
しかし―――。
「せっかくご厚意でいただいた物をつき返すなんて失礼だろ!」
普段、めったに声を荒げず、感情をあらわにしない父は、晴子を睨み上げた。
「これから長く付き合っていくご近所さんとの間に、こんなことで亀裂が入ってどうするんだ!」
「…………」
母は一瞬茫然と口を開けたが、数秒後には怒りが込み上げて来たらしく、健彦を睨み上げた。
プルルルルルルル。
そのとき、ソファに投げてあった凌空のスマートフォンが鳴った。
「おっと。電話電話―。あ、俺。もしもし?」
いよいよ修羅場と化したリビングから、凌空が離脱する。
「まったく」
父も晴子と、紫音、そしてプリザーブドフラワーを順番に見てからリビングを去っていった。
「…………」
母はそれ以上紫音に何も言わず今度はピーラーでニンジンを剝き始めた。
「―――」
紫音はダイニングテーブルの上に置かれたままのガラスドームに映る自分の顔を見て、小さくため息をついた。
◆◆◆◆
結局、その黒薔薇は、
誰がそうしたのかわからないが、ダイニングのサイドボードの上に置かれ、
その日以降だれもそれについて話すものはいなかった。